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よど号ハイジャック事件の全容と「明日のジョー」の悲しき証明

 訴状、蹶起趣意書、宣言、遺書、碑文、天皇のおことば……。昭和・平成の時代には、命を賭けて、自らの主張を世の中へ問うた人々がいました。彼らの遺した言葉を「檄文」といいます。

 保阪正康著『「檄文」の日本近現代史』(2021年10月、朝日新書)では、28の檄文を紹介し、それを書いた者の真の意図と歴史的評価、そこに生まれたズレを鮮やかに浮かび上がらせています。本書より一部を抜粋・再編して特別に公開。よど号ハイジャック事件のリーダーである田宮高麿が書いた「出発宣言」を紹介します。

(タイトル画像:Bychykhin_Olexandr / iStock / Getty Images Plus ※写真はイメージです。本文とは関係ありません)

保阪正康著『「檄文」の日本近現代史 二・二六から天皇退位のおことばまで』(2021年10月、朝日新書)

<出発宣言>

(1)
 全ての日本プロレタリア、人民諸君、同志諸君!
 そして全ての革命的世界プロレタリア、人民諸君!
 我々は、今、日本を出発せんとしている。ハイ・ジャックで……
 60年代後半、確実に、万国プロレタリア、人民の決死の闘いが、世界革命の時代、世界革命戦争の時代を告げてきた。
 この時代、万国プロレタリア、人民の力によって、国籍、国境はとってはらわれるべきである。国境、民族を乗り越え、万国プロレタリア、人民が団結してこそ、帝国主義、ブルジョアジーを、この地球上から1掃しうる。だが国境、民族を越えた、万国プロレタリアの団結は、帝国主義、ブルジョアジーとの血の闘いを経ることなしにはありえない。
 そして又、全てのプロレタリア、人民は知っている。過去、幾度か、「国際主義」「万国のプロレタリア団結せよ」の旗の前に決起せんとしたことか。そして、その度に、如何に多くの「共産主義者」達が、その名の下に、プロレタリア、人民を裏切ってきたかを……
 今、世界革命、世界革命戦争の時代である。この時代を領導しようとする我々は、まず、我々自らを、この時代にふさわしい主体に転化し昂め上げなければならない。我々はかたく信じる。我々が、言葉だけでなく、現実的に、徹底した「国際主義者」になりきった時にのみ、プロレタリア、人民の心を固く握るだろうと。
 ハイ・ジャックは、その出発点である。我々は、意識的に自ら国籍を捨て、国境を強行的に、突破することから、それを開始せんとしているのである。
 (2)~(7)までは略
 (8)
 それ故蜂起の軍隊は、中枢権力の1挙的解体と機動隊の武装解除をなしうる力量をもたねばならない。権力に全く見えない所で組織だって活動できる能力をもつことであり、あらゆる武器を使いこなせる能力をもつことである。この様な訓練をつんだ軍を建設しなければならない。
 我々の大部分は、北朝鮮に行くことによって、それ自身を根拠地国家化する様に最大限の努力を傾注すると同時に、現地で訓練を受け、優秀な軍人になって、如何なる困難があろうとも、日本海を渡って帰日し、前段階武装蜂起の先頭に立つであろう。
 我々の大部分は、北朝鮮に断乎、渡るのである。そして断乎として帰ってくるのである。如何に国境の壁が厚かろうとも……
 だが、同時に、日本の同志諸君!
 逆に、日本に於ける、あるいは各国に於ける前段階武装蜂起が貫徹されない限り、世界革命戦争の対峙下に突入しないのであり、それ故、帝国主義の包囲下にある「労働者国家」が文字通りの根拠地化されるはずもないのであり、故に、我々の帰ってくることを期待し、乃至は、それを待つことを理由に、前段階武装蜂起の時期を遅らしてはいけない。
 それはただ、軍事的に劣勢な中で開始されなければならないということだけである。
 断乎として、日本の同志は前段階武装蜂起を貫徹せよ!
 我々が帰ってきて、前段階武装蜂起がなしえる時には、その軍事的技術の優位性に於て、その蜂起の軍の世界性に於て、有利な、前段階蜂起│世界革命戦争が有利な地点から、開始されるだろう。
 再度、強調する。我々の大部分(世界党建設のために残る同志を除外して)は、帰ってくることに、全精力を集中するだろうと。
 (9)
 我々は、明日、羽田を発たんとしている。我々は、かつて、如何なる闘争の前に於ても、これほどまでに、自信と勇気と確信が、内から湧きあがってきたことを知らない。
 我々は、この歴史的任務を遂行しうることを誇りに思う。我々は、日本の諸同志に、心から感謝する。この歴史的任務を我々に与えてくれたことを。我々は、我々の与えられたこの歴史的任務を最後まで貫徹するだろう。
 日本の同志諸君、プロレタリア人民諸君!
 全ての政治犯を奪還せよ!
 前段階武装蜂起を貫徹せよ!
 前段階武装蜂起世界革命戦争万歳!
 共産同赤軍派万歳!
 そして、最後に確認しよう。
 我々は“明日のジョー”であると。
   3/30 10じ半

田宮高麿
以下8名

■「明日のジョー」の悲しき証明 よど号事件

 宣言の末尾にでてくる「明日のジョー」というのは、昭和45年(1970)当時、「少年マガジン」に連載されていた劇画の題名(正確には「あしたのジョー」)である。学生をはじめ劇画ファンに愛読されていたものだ。

 ストーリーは貧しい階層出身のボクサーが、試練を経ながら成長していくというありふれた展開である。しかし主人公ジョーの、チャンピオンになんども挑戦するプロセスは、全共闘世代に拍手をもってむかえられた。当時の彼らの行動原理と似ていたからだ。

 ジョーはリング上で、髪の毛が白くなり、肉体が一個の物体に化したかのように“燃えつきていく”。なにやら不鮮明な終わり方をするのだが、そこがまた人気を得た原因だともいう。

「よど号」乗っ取りの赤軍派幹部田宮高麿は、このジョーの姿に自らと8人の仲間を擬している。まるで田宮は、革命が成ったとき、自らは一個の物質と化して燃えつきていく、そういう運命にあるのだと覚悟しているように見える。これまで日本の革命運動に命を投げだそうとする者の宣言や檄文は、大体が、どれも悲壮で悲しみや怒りがもえたぎっており、ときにそれが抑えがたく噴出している。田宮の宣言のように、その時代のサブカルチュアを引用したものを見たことはない。そしてこの宣言のリズミカルさはどうしたのだろうか。

 昭和45年3月31日。羽田発福岡行きの日航機「よど号」(乗務員7人、田宮ら犯人を含めた乗客131人)が、富士山上空にさしかかった午前7時30分ごろ、前方にいた6人の男がいっせいに立ちあがった。

 左手にモデルガン、右手に日本刀をもっていた。手なれた様子で操縦室に入る者、スチュワーデス(編集部注・当時の呼称、現在の客室乗務員、日本ではCAなど)を脅かす者、乗客をなだめる者に分かれた。腰に登山ナイフとパイプ爆弾で武装しているひとりが、

「おれたちは爆弾をもっている。死ぬつもりだ」

 と威嚇する。そのあとは、彼らがつくりあげた脚本どおりに進んだ。

 機内の制圧者たちは、石田真二機長に、「北朝鮮のピョンヤンまで行け」と命じた。そのあとで、乗客にむかって演説をくり返し、ときに冗談までまじえて、手品師のように乗客の心理をなだめていった。

 演説をくり返したのは、田宮高麿であった。彼の演説は、出発宣言の反復であったが、それに疲れると、乗客に宣誓するかのように、

「世界のプロレタリアートのために最後までがんばりたい。みなさんには迷惑をかけたが、それも日本を愛するゆえの行動と理解してほしい。……われわれは、北朝鮮を足場にして北ベトナム、キューバにも足を伸ばし、世界平和のために闘う」

 と叫んだ。その口調は、一語の切れ目をひきのばす、あの学生運動特有のものだったが、表情はやわらかかったと、のちに解放された乗客が証言している。

「よど号」は、田宮の指示で福岡空港で給油したが、このとき、病人や婦人、老人、子ども23人を釈放した。そのあと北朝鮮にむかって午後1時59分、福岡空港を離陸した。しかし、日本政府は韓国政府と連絡をとり、金浦空港をピョンヤン空港に擬装することにした。日本政府にも韓国政府にも、政治的な計算が働いていて、とにかく北朝鮮に送りこみたくはなかったのだ。

 しかし、擬装は、田宮によって見破られた。それから三昼夜、金山政英駐韓大使、橋本登美三郎運輸相が、金浦空港の管制塔から田宮にむかって、北朝鮮行きを思いとどまるよう説得したが、田宮は終始ピョンヤンに行けとくり返した。かけひきは終わり、乗客とスチュワーデスを降ろして、運輸政務次官の山村新治郎が身がわりになり、4月3日午後6時4分、「よど号」はピョンヤンにむかった。

 戦後の全学連を中心とする学生運動は、日本共産党の指導下にあった。

 しかし、共産党が、それまでの極左冒険主義を自己批判した6全協(日本共産党第6回協議会、昭和30年)をめぐって、全学連の内部に亀裂が生じた。

 昭和33年、共産党の指導に反撥するグループが、党を除名され、共産主義者同盟(ブント)を結成した。また、社会主義学生同盟(社学同)が、トロツキズムに基づいた運動をすすめるようになる。さらに、革命的共産主義者同盟(革共同)の指導をうけた学生グループも活動をつづけていた。

 昭和35年の安保闘争の総括をめぐって、反日共系の学生組織はいくつものセクトに分かれていく。昭和44年の東大安田講堂攻防を頂点とする学生運動の組織は四分五裂となった。こういう潮流のなかで田宮の属する共産主義者同盟赤軍派が、ブントの1セクトとして誕生する。

 昭和44年9月3日、共産主義者同盟赤軍派軍事革命委員会名で、「戦争宣言」を発表し、軍団を組織して赤軍に結集せよ、全人民の武装を切り拓き、世界赤軍へ発展させよと軍事行動への檄をとばした。

 赤軍派を指導したのが、議長塩見孝也(元京大生)、軍事委員長田宮高麿(元大阪市立大生)である。

 ふたりは、赤軍派の武力闘争がつぎつぎと失敗するのに焦り、ハイジャックで国外にわたり、国際根拠地をつくるとともに世界革命の軍隊組織を編成しようと考える。その計画を進めている折りに、塩見は、東京の田端にあるアジトで逮捕されてしまった。これが昭和45年3月5日のことである。

 塩見が逮捕されたあと、田宮がどのようにして北朝鮮行きを進めていったのかははっきりしていない。しかし、とにかくひとたび目標を設定すると、どんなことでもやりぬくというのが赤軍派の戦略であり、田宮の性格であったのだろう。8人のハイジャッカーが集められ、乗っとり作戦を「フェニックス作戦」と名づけて、ひそかに執拗に訓練をつづけた。

 各人の分担がきまり、計画遂行の自信がわいてから、3月31日という決行日をきめた。

 冒頭の出発宣言は、決行日の前夜、田宮が書き、投函されたと推定される。「赤軍」特別号の6月10日号(ハイジャック特集号)に収録された。

 6000字に及ぶ長文のなかで訴えている要点は、<一国社会主義革命の時代は去り、世界革命の時代にはいった。いまや世界革命を統率する司令部とその根拠地をつくらねばならない>というところにある。

 また「世界的闘いの後を今見る時、ヴェトナム、ラオス、カンボジアにおいて、中近東において、全て拡大、前進への道を歩んでいる」と世界情勢を分析している。

 もっとも、いま昭和55年の段階で、事態は田宮のいう方向には進んでいない。ベトナム、ラオス、カンボジア、中近東が、「全て拡大、前進」しているとはいいがたい。

 田宮ら9人が、北朝鮮にいってから10年の歳月が流れた。ときおり訪朝団をつうじてはいる情報では、彼らは学習に余念がないという。そしていま、「明日のジョー」たちは「自らの思想がまちがっていた」と告白しているそうである。とするなら、彼らはみごとに現実によって復讐されているのではないだろうか。なるほど、彼らは「明日のジョー」だったかもしれない。チャンピオンのまえでジョーが燃えつきたように、9人のジョーも燃えつきたといっていい。

 このハイジャックの2年後の昭和47年、連合赤軍浅間山荘事件がおこり、大量リンチ事件が発覚した。また、海外で活動をつづける日本赤軍というグループが誕生している。彼らのイデーは、無限に現実とかかわりをもとうとしているかのようにみえる。しかしそれはつねに不毛の土壌で消えていくアダ花のように思われる。