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呉座勇一氏が読んだ火坂雅志・伊東潤著『北条五代 上・下』/文庫解説を特別公開!

 火坂雅志さん、伊東潤さん共著『北条五代 上・下』(朝日文庫)が刊行されました。戦乱の世で、上に誰も頂かず、民のための理想の国を作る――早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直と5代100年に亘って東国に覇を唱えた北条家100年の興亡を、急逝した火坂氏の衣鉢を継いだ伊東氏が書き継ぎ完成させた、奇跡の歴史巨編です。北条家100年の歴史が後世に遺したものは何だったのか。本書の刊行にあたって歴史学者の呉座勇一さんがご執筆くださった解説を特別公開します。

火坂雅志、伊東潤共著『北条五代 上・下』(朝日文庫)

 戦国時代関東における武田・上杉・北条の三つ巴の戦いは、俗に「戦国関東三国志」などと呼ばれる。だが、川中島の戦いで知られる武田信玄・上杉謙信のライバル関係に比して、北条氏(鎌倉時代の北条氏と区別するため、学界では後北条氏・小田原北条氏と呼ぶことが多い)の存在感は必ずしも大きくない。北条氏を主人公としたNHK大河ドラマはいまだに制作されていない。

 戦国時代屈指の有力大名でありながら、北条氏はいささか地味な存在である。けれども親子兄弟骨肉の争いで弱体化したり、優れた後継者に恵まれずに衰退したりする大名が多い中、北条氏は五代にわたって一歩一歩着実に勢力を拡大していった。

 この解説では、日本史学界における北条氏研究の最新成果を紹介し、それが本作にどのように反映されているのかを指摘したい。特に初代、北条早雲に関する研究は急速に進んだので、早雲を中心に説明していく。

 一般的には北条早雲というと、徒手空拳、裸一貫の「伊勢の素浪人」から戦国大名に成り上がった風雲児のイメージがある。しかし研究の進展により、現実の北条早雲は、室町幕府の重臣である京都伊勢氏の一門であることが明らかにされた。

 司馬遼太郎の歴史小説『箱根の坂』でも、伊勢新九郎(のちの早雲)は、室町幕府八代将軍足利義政の寵臣である伊勢貞親の一門として描かれている。ただし分家の備中伊勢氏のそのまた分家と紹介され、「およそ収入というものがない境涯」が強調された。

 ところが、さらなる研究の深化により、右の理解も正確ではないことが判明した。たとえば、早雲の生年に関して再評価が進んだ。従来は永享4(1432)年生まれと考えられており、遅咲きの英雄と言われていたが、近年では康正2(1456)年説がほぼ確実視されている。この新説に従えば、応仁の乱勃発時の早雲は数え年で12歳。終戦時には22歳。当時、早雲は京都にいたと見られており、多感な青春時代を戦乱の中で過ごしたと言える。このことは早雲の人格形成に大きな影響を与えただろう。

 早雲の本名は伊勢盛時。備中伊勢氏の庶流にあたる伊勢盛定の次男である(兄の貞興は早世した)。備中伊勢氏は、備中国荏原郷(現在の岡山県井原市)に本領を有していた。ただし、足利将軍家の直臣であったため、所領経営は家臣に任せ、当主は京都で生活を送っていた。盛定・盛時父子は共に京都生まれの京都育ちである。

 盛時の父の盛定は伊勢氏本家の伊勢貞国の娘(貞親の妹)を妻に迎えたことを契機に、本家の有力一族として活動した。伊勢氏本家は代々、幕府の政所頭人(長官)として幕府財政を預かる重臣の家であり、特に伊勢貞親は将軍足利義政の側近として権勢をふるった。盛定は義兄である貞親の右腕として活躍した。盛時も成長すると、幕府のエリート官僚として活動している。

 本作の作者の一人である伊東潤の歴史小説『黎明に起つ』は、康正2年生年説・エリート官僚像を採用している。新九郎は史実通り、文明15(1483)年に室町幕府9代将軍足利義尚(義政の子)の申次衆(取次役)になっている。本作でも近年の研究状況を踏まえて、新九郎は文明15年に申次衆となり、その数年後には奉公衆(将軍直属の親衛隊)に出世している。

 さて盛時の姉(北川殿)は駿河(現在の静岡県中部・北東部)の大名である今川義忠に嫁いでいたが、文明8(1476)年に義忠が戦死すると後継者問題が発生した。義忠と北川殿の嫡男である龍王丸(のちの氏親)はわずか4歳であったため、義忠の従弟である小鹿範満が中継ぎとして家督を継いだ。けれども龍王丸成長後も範満は家督を譲ろうとしなかったため、長享元年(1487)に盛時が京都から駿河に下り範満を討ち、龍王丸を家督につけた。

 この功績により盛時は今川氏から所領を与えられ、今川家臣となった。しかし盛時はこれ以後も室町幕府に籍を残していた。このため盛時の駿河下向も、幕府の指示ないしは許可に基づくものと考えられている。盛時はいわば本社の幕府から子会社の今川氏に出向したのである。

 さらに盛時は隣国伊豆を治める堀越公方の足利政知にも仕えていた。ところが堀越公方家で大事件が起きる。足利政知は長男の茶々丸を廃嫡し、茶々丸の異母弟の潤童子を後継者に定めていたが、延徳3(1491)年4月に政知は病死してしまう。すると同年7月、茶々丸がクーデターを起こし、潤童子とその生母である円満院を殺害し、実力によって堀越公方家の家督を継承したのであった。

 盛時は明応2(1493)年、38歳の時に伊豆に討ち入り、足利茶々丸を攻撃した。この直前に、盛時は出家し、「早雲庵宗瑞」と名乗るようになった。この出家は、幕府からの離脱や堀越公方家との絶縁を意味するものと推定されている。本作で早雲は「屋台骨の腐れかけた幕府の役人など、いつまでやっていてもつまらぬわ」とうそぶいている。
 先に触れたように、早雲はもともと幕府直臣であり、足利将軍家の血筋を引く茶々丸は主筋に当たる。早雲の行動はいわゆる「下剋上」に他ならない。早雲は明応7年に伊豆を統一する。本作は、旧体制をなぎ倒し、理想の世を切り開こうとする野心家早雲の大胆不敵な行動を生き生きと描いている。

 だが一方で、早雲は今川氏親の叔父として、伊豆一国の大名になってからも今川氏の軍事・外交に大きく貢献している。伊豆攻略において早雲は今川氏から軍事的援助を受けており、その恩に報いるために今川氏を支え続けた。また新興の戦国大名である早雲にとって、名門今川氏の後ろ盾が重要だったという側面もある。本作も「当時の今川氏と伊勢氏は、軍事、外交面においてほとんど一体といっていい関係にあった」と指摘している。

 現代風に言えば、早雲は戦国大名今川氏という親会社の取締役であると同時に、戦国大名伊勢氏という子会社の社長でもあった。早雲が今川氏から独立した戦国大名になるのは、伊豆統一から10年ほど経ってからのことである。早雲は大胆さだけでなく、挙兵から完全独立まで15年近くかける慎重さをも兼ね備えていたのである。

 2代氏綱は北条氏歴代の中でも影が薄いが、氏綱が創出した「虎の印判状」という行政文書は、以後の北条氏の領国統治システムの根幹となった。全国の戦国大名のうち、最も精緻な領国経営を実現したのは北条氏であり、その内政力の生みの親は氏綱だった。また氏綱は、伊勢から北条に改姓し、関東平定という以後の北条氏の戦略方針を決定した。

 氏綱は、創業者である父早雲のように権謀術数を駆使することはなかったが、堅実に勢力を維持拡張し、早雲の政治理念であった「民のための政治」を確立した守勢の人と言えよう。本作は、偉大な父に少しでも近づこうと努力する実直な氏綱を魅力的に造形している。

 3代氏康は、河越夜戦の劇的な勝利や、上杉謙信・武田信玄との抗争で知られ、北条五代で最も優れた武将とも言われる。本作では、繊細で心優しい少年だった氏康が乱世の名君へと成長していく様が丁寧に叙述されている。

 印象的なのは、上杉謙信の評価である。一般的に謙信は「義の武将」と思われているが、本作の謙信は独りよがりの正義に固執する侵略者として描かれており、通説と正反対と言って良い。謙信は、室町秩序の回復を旗印に、たびたび関東に出陣してきた。これは謙信にとっては正義の戦いであるが、氏康から見れば、いたずらに民を苦しめる不毛な戦いに他ならない。氏康の正義は、旧体制の復活ではなく、国衆(武士)や領民(百姓)の生活を保障することであり、関東を平和にすることであった。歴史学者の目で批評すると、北条氏の「義」を持ち上げすぎているようにも思えるが、上杉氏より北条氏の方が領民に配慮した統治を行ったことは、歴史的事実である。

 謙信と長く対立してきた氏康だったが、武田信玄の今川領侵攻で状況は一変する。氏康は信玄を討つべく、仇敵謙信と手を結ぶ。学界ではこれを「越相同盟」と呼ぶ。この「越相同盟」に秘められた氏康のねらいについて、本作は大胆な仮説を提起しており、興味をそそられた。本編未読の方はぜひ御確認いただきたい。

 4代氏政・5代氏直の時期も関東での勢力拡大は続くが、もはやそれは重要ではなくなっていた。中央に成立した織田政権・豊臣政権との対応が最大の課題となった。早雲以来の理念である「民のための政治」を貫くために中央政権に敗北必至の戦いを挑むか。それとも北条の家を存続させるために理想を捨てて中央政権に膝を屈するか。氏政・氏直は苦悩し、時に衝突しつつも、最後は北条の誇りを守るために手を携えて豊臣秀吉に立ち向かう。

 以上見てきたように、北条氏歴代の当主は、それぞれ性格を異にするが、父祖の教えを守り、たすきを受け継ぐかのように領国を発展させ、関東の覇者となった。武田信玄や上杉謙信のような英雄個人の名人芸ではなく、組織の力でここまで成功した大名家は他に類を見ない。

 そんな北条五代を主人公にした歴史小説が、不測の事態が原因とはいえ、二人の作家のリレーで紡がれたことに運命的なものを感じる。本作は、火坂の急逝により未完になるところを、伊東が書き継いで完結させたものだ。

 個性と個性が衝突してしまうのではないかと読む前は不安だったが、バトンの受け渡しはスムーズだ。かといって伊東が自分の持ち味を殺したわけではない。乱暴に色分けするなら、火坂が静で伊東が動だろう。情感豊かに人物を描き出す火坂に対し、伊東は手に汗握る展開で読者を引き込む。クライマックスに向かって盛り上げていくという意味において、不幸なランナー交代が結果的に功を奏した部分もあるかもしれない。

 豊臣秀吉の小田原征伐によって北条氏はあえなく滅びた。しかし北条氏の遺産は後世に引き継がれた。ならば彼らは“勝者”なのではないか。日常の鬱屈を一時忘れさせてくれる爽やかな読後感。歴史小説の醍醐味である。


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