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なぜ一作目の主人公は子供なのか?江國香織さんが“極度の”方向音痴から思考を巡らす刊行記念エッセイ/最新小説『川のある街』

 江國香織さんの新刊『川のある街』が発売になりました。ひとが暮らすところには、いつも川が流れている。はかなく移りゆく濃密な生の営みを鮮やかに活写する本書の刊行にあたって、江國さんから寄稿いただいたエッセイ(「一冊の本」2024年2月号に掲載)を特別公開します。江國さんの“極度の”方向音痴の話から、小説と人生へ広がる思考。この物語が生まれる過程と、江國さんの創作と思索の広がりを味わえる名文です。

江國香織著『川のある街』(朝日新聞出版)
江國香織著『川のある街』(朝日新聞出版)

 子供のころに住んでいた街のことをよく憶えている。通学路や公園、商店街は言うにおよばず、子供には縁のない場所――運輸会社、産婦人科医院、質屋、雀荘、着付教室、琴曲教室、煙草屋、月極駐車場など――がどこにあるか知っていたし(「明るい家族計画」と銘打たれた自動販売機が二か所にあることも知っていた。一体何を売っているのかは見当もつかなかったけれども)、どの家の庭にどんな花が咲いているかや、ある家のレンガブロックが一つ緩んでいて、隙間に小さな物を隠せることも知っていた。なぜか表札を読むのが好きだったので、知らない人たちが住む知らない家の、苗字だけはたくさん知っていた。電話ボックスがどことどこにあるのかも、意志を拾いたいときに行くべき場所も、野良猫に遭遇しやすい一角も。水が流れている側溝と流れていない側溝、雨の日にカタツムリがたくさんはりついている塀。洋風の家、和風の家、ほんとうに人が住んでいるのかと訝るくらいぼろぼろの家もあった。

 道のいろいろ――坂道か平坦な道か、土の道か砂利道かアスファルトの道か、日陰のできる道か否か――も、視覚だけでなく体全体の感覚として憶えている。調理油の匂いのする路地や、いつも(ほんとうにいつも)テレビの音が聞こえる路地、夕方に通るとお風呂の匂いのする路地もあった。板塀を突き破って道にはみだしている大きな合歓の木があって、夏の夕方にぽやぽやとけむるような薄ピンク色の花を咲かせていたことも、耳鼻咽喉科医院の玄関先に、おしろい花の豊かな茂みがあったことも憶えている。

 それなのに、なのだ。いま住んでいる街のこととなると、私は自分がほとんど何も知らないことに驚かざるを得ない。いまの街に住んで、もう三十年になるのに。

 もちろん、日常的に行く場所についてはわかる。最寄りの言うには若干遠い三つの駅や、行き先の違う二つのバス停、スーパーマーケットや郵便局、病院、銀行、書店、コンビニエンスストアやドラッグストア、ときどき打合せに使う喫茶店――。でも、それだけだ。たとえば花の咲く家は近所にたくさんあり、通りかかれば目を奪われて、「もうそんな季節か」と思ったり、「これは何という名前の植物だろうか」と思ったりするけれど、どの家にどんな花が咲くのかは記憶していない。たとえばどこかがさら地になったり、どこかに新しい店ができたりすれば気づくけれど、それ以前のその場所に何があったのかは思いだせない。まるで自分に必要なもの以外は目に入らないかのようなので、我ながら心配になる。

 たぶん大人よりも子供の方が、街との親和性が高いのだろう。観察力や好奇心の差もあるに違いないが、これといった目的なく戸外で過ごす時間(いまの子供たちにそれがあるかどうかはわからないけれども、私が子供だったころ、子供たちはよく外で遊んだ)の有無や、身体の大きさの差(子供の方が地面に近い)、記憶や経験の総量のなかで、ある街のそれが占める割合の差、といったあれこれによって、子供の方が断然ビビッドに、全身で街を甘受しているのだろうと思われる。

 三つの街を舞台に三つの小説を書こうと決めたとき、一作目の主人公は、だから子供以外にないと思った。小さな身体と子供ならではの思慮深さを発揮して、自分の住む街の隅隅を見せてくれるだろうと期待した(実際、彼女はその通りの働きをしてくれた上、耳のよさによって、小説に奥行きをつくってくれた)。

 では二作目は?と考えたとき、すぐに旅人が浮かんだ。旅人なら街を見るし、街を歩き、街を味わう。ある場所に暮らす人と、その場所を訪れるだけの人との違いも体現してくれるはずで、この二作目は、一つの場所が幾つもの顔を持つ話になればいいなと思った(そして、旅人以外にもう一種類、街との親和性の高い生き物がいることに気づいたとき、霧が晴れるように視界がひらけた)。

 では三作目は? これはもう徘徊する老人しかないだろうと思った。好むと好まざるとにかかわらず、仕事からも家族からも解放されてしまった老人には日々の時間があり、子供や旅人と同様に街との親和性が高い。健脚な老人なら、きっとたくさん歩いてくれるだろう(実際、彼女はよく歩いてくれた)。でも、書き進むにつれて、散歩と徘徊はどう違うのかという疑問が湧いた。道すじを把握できているのが散歩で、できないまま歩くのが徘徊だろうか。だとすると、迷子と徘徊はどう違うのか。まさかとは思うが、子供だと迷子で老人だと徘徊? じゃあ子供と老人の中間の場合は?

 というのも、私自身が極度の(なぜ極度と書いたかといえば周囲の人々にたびたびそう指摘されているからで、自分ではそれほどでもないと思っているのだが、自分ではそれほどでもないと思っているというその事態こそが、極度を証しているのだろう)方向音痴で、自宅近くでも旅先でもその中間でも、道に迷うことなど日常茶飯事だからだ。ほんとうに、しょっちゅう迷子になっている。戸外でだけではない。たとえばそこそこ広いレストランに行くと、トイレに立ったが最後、元いたテーブルがどこだかわからなくなる。誰かといっしょに食事をしていれば、その人たちの姿を頼りになんとか(たいてい反対側の、別なテーブルのまわりをうろうろしたあとで)たどりつけるが、一人で食事をしていた場合や、個室(のうちの一つ)で会食をしていた場合は万事休すだ。店の人に、「私のテーブルはどこだったかしら」とか、「何々さん(予約名)のお部屋はどっちでしたっけ?」とか尋ねると、決まってぎょっとされる。まあ、この場合の私は「散歩」でも「迷子」でも「徘徊」でもなく「酔っ払い」に分類されるのかもしれないが、一滴ものんでいなくてもおなじことだと断言できる。

 もう随分前だが自分の方向音痴を認めたくなくて、目的地があるのにたどりつけなければ道に迷ったことになるけれど、目的地がなければ道に迷いようがないだろう、と考えたことがある。それで、旅先では目的地を決めずに散策にでるようにしていたのだが、これをやると、行きはいいけれど帰りに困ることがほどなく判明した。出鱈目に歩いているうちにたまたま自分の泊っているホテルにでくわす、という幸運に恵まれない限り永遠に帰れないからだ。これはたぶん、行きが「散歩」で帰りが「迷子」に分類されるのだろうが、どこまでが行きでどこからが帰りなのか、自分でもさっぱりわからなかった。これは立派な「徘徊」と言えよう。

「徘徊」を手元の辞書(角川国語辞典)で引くと、「名・自サ変 さまよい歩くこと。」とある。「さまよう」を引くと、「ただよう。さすらう。」意の他に、「ためらう、迷う。」の意もあると書かれている。

 いずれにしても、さまよい歩くことや道に迷うことはある種の醍醐味である。時間の流れの外側にでてしまった気がするし、突然目の前に知らない景色が広がったり、逆に突然馴染みのある光景にでくわしたりする。そして、その日常からの小さな逸脱と、新鮮さの発見(もしくは再発見)は、小説を読んだり書いたりする行為にすこし似ている。先がわからないまま読み(書き)進め、なんと、こんなことになるのか、とわかったときの意外さや、どこに連れて行かれようが行くしかないというややうしろ暗く野蛮な喜び。

 意図して行ったわけじゃなく、道がわからなかったからたどりついてしまった場所。

 小説にも人生にも、意図や計算では行かれない場所があると私は思う。


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