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キャンディーズのLPに残された遺書「いまさみしくってしょうがない」ある少年の自殺

 訴状、蹶起趣意書、宣言、遺書、碑文、天皇のおことば……。昭和・平成の時代には、命を賭けて、自らの主張を世の中へ問うた人々がいました。彼らの遺した言葉を「檄文」といいます。

 保阪正康著『「檄文」の日本近現代史』(2021年10月、朝日新書)では、28の檄文を紹介し、それを書いた者の真の意図と歴史的評価、そこに生まれたズレを鮮やかに浮かび上がらせています。本書より一部を抜粋・再編して特別に公開。キャンディーズのLPの上に残された遺書から、昭和53年の少年のさみしさに迫ります。

(タイトル画像:Mikhail Dmitriev / iStock / Getty Images Plus ※写真はイメージです。本文とは関係ありません)

拝啓
おれは今、レコードをききながら泣いている。これからはどうやって生きていいかわからない。
ただいろんなことを考えているだけだ。
おれなんか、死んだ方がいいのかな。
死んで天国に行きたい。
田舎に帰りたかった。
いまさみしくってしようがない。

■いまさみしくってしようがない─少年の自殺

 16歳の少年、江尻富美雄(仮名)は、キャンディーズのLPの上に、この遺書をのこして逝った。昭和53(1978)年3月16日正午すぎ、江尻少年の死体は都営地下鉄工事現場のコンクリート製水槽(高さ3.7メートル、幅7.3メートル、奥行9.5メートル)の水底で発見された。場所は東京都千代田区九段1の1、いわば東京の中心地である。この自殺を報じた読売新聞は、「さびしい、田舎に帰りたい―少年作業員 工事現場で自殺」と社会面の一部をさいた。

 しかしほとんどの新聞は黙殺した。なぜだろうか。

 なにしろこの日は、もうひとつ女子高校生の自殺があった。大学の進路を文科にするか、理科にするか悩み、あげくのはてに日赤医療センター敷地内宿舎屋上からとびおり自殺をはかったのである。こちらのほうが、たしかに人びとの関心を集める。おりしも教育過熱の時代ではないか。

 少年作業員の工事現場での自殺は、女子高校生よりはるかにニュース価値が低いということだろう。とにかくこの少年の死は、都会人の関心をさそうにはあまりにも条件が悪かった。

 私はこの新聞記事が気になった。新聞記事のなかに、江尻少年が自殺したのは、「寂しいので泣いている。彼女もできない。いなかに帰りたい」などの走り書きがあり……という一節にも関心を持ったが、それより江東区のアパートの一室に住み、そこに遺書が置かれていたというのを知ったからだった。

 そのころ私は、ある老人の生き方を追いかけて、江東区のアパートを訪ねては取材していた。貧相なアパートであった。ドアをあけると4畳半の部屋のまんなかにコタツがあり、あとはピンク・レディーや西城秀樹らのポスターが壁にはってあった。それが不自然であった。孫のような歌手たちの笑いのなかで、老人はテレビを見ては、一日をすごしていた。

 江尻少年の自殺を新聞記事で読んで、私は陽当たりの悪い部屋でテレビにかじりついている老人を思った。もし少年であれば、あんな環境には耐えられぬだろうと思った。江尻少年が作業現場に寝泊まりしていたのなら、私の関心をひかなかった。しかし江東区の陽のあたらないアパートの一室で、「寂しいので泣いている」少年の像は、あまりにもむごい感がする。

※写真はイメージです。本文とは関係ありません(Actogram / iStock / Getty Images Plus)

 昭和54年4月、サンケイ新聞は、少年の自殺をとりあげた。たまたまこの企画のなかで、江尻少年がとりあげられた。そこで私は、彼がのこしていた冒頭の遺書の詳しい内容を知った。中学生時代の同級生に宛てたものという。

「おれは今、レコードをききながら泣いている。これからはどうやって生きていいかわからない」

 この一節は、大仰にいうなら、深遠をつくことばである。レコードをきいているうちに、己れのいまがなんとも空しくなるというのは、しばしばあることだ。そんな経験はだれにでもある。しかしだれもがそれに耐えている。そういう経験をとおして、私たちは成長していく……。

 16歳の少年が、なぜ死んでいかなければならなかったのかを追いかけていくと、そこにはこの時代がかかえているあらゆる問題がひそんでいることに気づく……。この少年は時代に押しつぶされた犠牲者だということがわかってくる――。

 まだ世の中のことを寸分も理解しないでいる少年が、地下鉄工事の現場で自死するのは、この社会がかかえている矛盾をひとりでかかえていった姿ともいえる。大変失礼な推測をする。もし彼が犯罪者に転じて、そのことにより“社会的発言”を得るようになったら、たちまちのうちに“守る会”なるものが、その発言を武器にするだろう。実際にそういう例があるではないか。

 しかしひたすら「レコードをきいて泣いている」少年には、だれもふりむいてはくれない。そこにまたこの社会の二重の残酷さがある……と私は思う。

 江尻少年は、昭和36年12月16日に生まれた。高度成長政策が進められたころに生まれたのである。推測すれば、物質的に恵まれた環境が用意されている世代のはずだ。

 実家は福島県の小さな町にある。そこには祖父母と母親、そして小学生の弟がいる。サンケイ新聞の報じるところでは、彼の自殺を東京の警察が伝えると、母親は絶句し、つぎに弱々しく汽車賃の心配をしたという。そこに家庭環境の一端がのぞかれる。

 少年は地元の中学を卒業すると、すぐに神奈川県藤沢市の電機会社に就職した。仕事は、ベルトコンベアの作業工程の監視だった。彼に必要なのは、目と手だけである。じっと流れてくる部品を見つめているだけだ。それも限られた時間いっぱいつづける。神経は疲れる。仕事を終えると、会社の体育室でピンポンをして寮に帰ってくる。あとはテレビを見るだけだ。

 平凡な日々のくり返し。

 そこには彼なりに満足感はあったろう。なぜならここにいる限り衣食住が保証されるからだ。ときに家庭へ仕送りをしている。しかしこういう生活に耐えるには、ある種の諦観とか割り切りが必要になる。そこに達するには、彼はまだあまりにも若すぎた。

 中学時代、少年は野球部にはいっていた。万年補欠だった。それでも退部はしなかった。家に帰るより、学校にいるほうがまだ楽しかったからともいう。そういう楽しさを、人生のあきらめにむすびつけるのは、彼にはあまりにも厄介な営みだった。

 昭和53年2月、彼は電機会社を辞める。すでに人生の輪郭を知った中年の社員たちが、懸命にとめる。しかしそれをふりきるように辞めていく。彼は、衣食住の代償として毎日8時間から9時間も拘束されつづける仕事が耐えられなくなったのだ。それをだれが辛抱がたりないといって責められよう。

 その後、彼は叔父を頼って東京に出てくる。

 叔父が地下鉄工事に従事していたので、その手伝いをすることになった。1日5500円の仕事。といってもとくべつにむずかしい仕事ではなかった。

 地下鉄工事に従事する労働者は、30代か40代の屈強な者が多い。経験こそが工事を円滑に進める鍵なのである。そのなかにあって、十代のこの少年は、あまりにも弱々しく痛々しい。

 この仕事についてまもなく、2メートルの高さのヤグラからすべり落ちて怪我をしている。事実、1カ月ほど共に働いた労働者は、その痛々しさと仕事の不慣れに同情していたのだ。

 5500円の日給は、彼にとっては高額に映る。

 電機会社の単調さから救われ、そのうえこれだけの金がはいる。しばしば藤沢にある電機会社の寮にも遊びに行ったという。土産を渡し、ときに椀飯ぶるまいをした。それがたとえ少年の見栄であっても、そのこと自体に彼自身が満足感を味わっていたとするならば、それはそれで人生勉強のひとつであっただろう。

 少年の自殺のあと、彼の部屋をのぞいた叔母は、布団とボストンバッグ、そして一台のプレーヤーがあるのを見つけている。4畳半の部屋に、彼の楽しみをあらわすのはプレーヤーだけだ。

※写真はイメージです。本文とは関係ありません(EnolaBrain / iStock / Getty Images Plus)

 レコードが一枚あった。キャンディーズのLPだったという。キャンディーズは、半年前に「ふつうの女の子に戻りたい」と、解散宣言をし、その素朴さが若者の気持をとらえた。彼女たちのヒット曲「春一番」のなかに、

<もうすぐ春ですねえ>

 という歌詞がある。青春の息吹をたたえる歌詞が散っている歌。三人の女性がハーモニーをとりながらくり返し歌う。

 感情を刺激し、そしてレコードがとまる。

 思うに、少年は、4畳半の部屋でなんどもなんどもLPをかけていたのだろう。それをききながら、彼は泣きつづけている。なんのために……なぜ自分が生きているのか、生きつづけるのか、それをたしかめようとする。そのことを知ろうと希求する。しかし彼にはそれがわからない。16歳、彼の年齢の90%はまだ高校1年生である。

<もうすぐ春ですねえ>をきいて泣きつづける少年。夜、地下鉄工事で地下10メートルの地底にもぐり、そして昼はアパートにかえってキャンディーズのレコード。そのくり返しに、こんどは初めの職場、電機会社の単調さとちがう耐えられなさを見つけていただろう。

 だが地下鉄工事もまた永遠の彼の仕事になりうるかどうか。都会の喧噪をぬうように、都会が寝静まると同時に、地下にもぐっていく生活。周りにいるのは30代か40代の男たちばかりだ。少年はまだ一人前でない。労働の意味もしらない。屈強な男たちが工事の基本ともなるべき土砂運びをし、重いコンクリートを運んでいるとき、筋肉もかたまっていない少年はどぎまぎしているだけだ。仕事の邪魔にさえなりかねない。

 少年は故郷を思う……そこに友人もいる。肉親もいる。しかし彼を受けいれる職場はない。

 3月10日すぎ、彼の姿が工事現場から見えなくなった。ここにきて40日を経たときだ。心配した叔父は、捜索願をだす。まだ子どもだから仕事もあきっぽいのだろう、どこかで遊びあるいているのかもしれん――しかし4畳半をしらべてはじめて遺書をのこしているのを知る。

 遺書はLPのレコードの上にのせられていた。

 姿が見えなくなってから1週間後、彼の姿は水槽のなかから発見される。彼の働いていた職場の一角にある水槽であった。カーキ色の作業衣と長ぐつ姿。ズボンのポケットに、11000円と25円の硬貨があった。中学時代の友人に宛てた遺書、それに女性の友だちに宛てたらしい手紙が投函されずにあり、それらが、彼の遺志をはかる、のこされたすべてであった。

 肉親宛ての遺書はない。肉親に別れを告げる遺書より、彼自身の心の悩みをそのまま書きのこすことで、江尻少年は<時代>に宛てての遺書を書いたことになる。

「死んで天国に行きたい」
「いまさみしくってしようがない」――。

 16歳の少年の本音だろう。彼は本音のままに死んでいった。土曜日の夜の新宿、日曜日の昼の原宿、そこにはこの少年と同じ境遇の少年が無数にいる。田舎に帰りたいが帰れない少年、4畳半で泣くだけの少年、しかし彼らはとにかく新宿や原宿で、自己発散をしてつかのまの解放感を求めている。

 私が取材した老人は、もう人生の終焉を迎えていた。いまの4畳半の生活で、好き勝手のできる境遇は幸せすぎるほどだといっていた。

 そういう老人たちの人生は、戦争によって狂わせられたにもかかわらず、「しかし生きのこっていることで、私は幸せなのだ」といいつづける。その意味を、死んだ江尻少年や、原宿や新宿に集まる少年が理解するには、まだ幼すぎる。所詮、人間はたったひとりで生きていく動物なのだということを知るには、彼らは子どもでありすぎる。だが江尻少年の死は、この時代がいつかこういう層によって反撃を受ける予兆であると断言できる。

 この少年の苦しみを歪曲して“政治化”しようとする勢力が生まれ、それが時代の主流になれば、社会はより苦悩に満ちたものになる。勉強部屋と塾だけにとじこめておこうと願う母親への“秀才生徒”の反乱は、江尻少年の自死と同根である。彼らもまた、

「これからはどうやって生きていいかわからない」

 と悩んでいる。この悩みを放置すれば、いつか政治がまちがいなく<死>へとつながる道に進む。いまふえている一連の少年、少女の自殺は、次代の断面をきびしく断罪しているのである。