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【待望のシリーズ復刊】北原亞以子による人情時代小説の金字塔『傷 慶次郎縁側日記』 菊池仁氏の文庫解説を特別公開!

朝日新聞出版さんぽ

 北原亞以子さん『傷 慶次郎縁側日記』(朝日文庫)が6月20日に刊行されました。「慶次郎縁側日記」は、元南町奉行所同心のご隠居・森口慶次郎が弱き者を情けで支える人気時代小説シリーズです。北原亞以子さんの作家活動や本シリーズの魅力に迫った、文芸評論家の菊池仁氏による文庫解説を公開します。

    <本書が原作>
    
時代劇セレクション「慶次郎縁側日記」(主演:高橋英樹)
    NHK総合 毎週水曜日 午後3時10分から放送中
    ※放送予定は変更になることがあります。

北原亞以子著『傷 慶次郎縁側日記』(朝日文庫)

 シリーズものとしては、池波正太郎「鬼平犯科帳」と比肩しうる面白さと人気を博した北原亞以子「慶次郎縁側日記」の待望の再刊が始まる。本書はその記念すべき第1巻である。

 作者は重い病で病床にありながらも、旺盛な筆力を示していたが、2013年に75歳で急逝した。まずプロフィールを紹介すると、作者は1938(昭和13)年に新橋で生まれた。父は4歳の時に出征、終戦直前の45年4月に戦死、7歳であった。これが作者の原体験となる。実家は芝大神宮の近く、柴井町の大名屋敷跡の家具屋横町にあった椅子専門の洋家具屋である。家には名人気質の職人であった祖父や歌舞伎好きの祖母が健在で、彼らの話を通して、江戸の町や明治・大正期の下町のことを知ったとのこと。これが原体験と共に作品に色濃く反映している。つまり、このような子供の頃の記憶を手繰り寄せて、作品の中に活かす書き方が、独自の手法となっている。亡くなる2年前に強烈な印象を与えるエッセイを書いている。

 命を大切にしても、病気が病気ですから、あと10年生きるのはむりでしょう。残された時間ではまず、生まれ故郷である東京・江戸を書きたいと思っています。
 病室でも目をつむると、江戸の情景が見えてきました。長屋の路地が多いんですけれど、反りかえったどぶ板とか、向かいあった家の軒下にわたされた物干竿とか。どこで見たんでしょうね(笑)。

「オール讀物」2011年9月号

 これを読むと作者の江戸の下町に対する思い入れの深さが迫力を伴って伝わってくる。要するに、作者の作家としての成熟は、出発点である消えていく江戸情緒や、戦前の下町の風情を、生活の原風景と位置づけ、自己の内部に取り込み、発酵させてきたことに他ならない。「慶次郎縁側日記シリーズ」はその頂点を示した作品と言っても決して過言ではない。といっても作家人生は決して平坦なものではなかった。
 作者が文壇デビューのきっかけを掴んだのは、1969年に「ママは知らなかったのよ」で第1回新潮新人賞を受賞し、同年に「粉雪舞う」で第12回小説現代新人賞の佳作に選ばれたからである。作者31歳。幸運に恵まれたデビューといえそうだが、現実はそう甘くなかった。書いても書いても原稿を返される日々が20年間も続くのである。作者が長い雌伏期間から解放されたのは、1989年に『深川澪通り木戸番小屋』が泉鏡花賞を受賞してからである。さらに93年に『恋忘れ草』で直木賞を受賞し、本格的な執筆生活に入る。
 作者はこの2作で自己の鉱脈を掘り当てた。つまり、デビュー以前からの習作時代を含めて20数年に及ぶ厳しい研鑽が実を結んだのである。重要なのは、江戸情緒を残す核となった土地柄と、心にネガフィルムのように焼き付いている祖父母、父母の佇まいを反芻し、それをモチーフとして作品に取り込んだことである。それが江戸の市井に暮らす庶民に寄り添い、その喜怒哀楽を情感溢れた筆致で描く作風として定着していく。
 前掲の2作をはじめ、『花冷え』『妻恋坂』『あんちゃん』『初しぐれ』などの作品はその作風が見事に開花したものである。表現を換えれば、これらの作品が読者の琴線に触れ共鳴し、独特の読後感を奏でるのは、失われつつある生活の原風景が、その背後に息づいているからに他ならない。確かにこれが作者の特質だが、決してそれだけではない。作者はまぎれもなく現代の一流戯作者(物語作者)であった。それは、独自の歴史観をベースに骨太な人物造形が特徴の『歳三からの伝言』を始めとした土方歳三や新選組もの、『まんがら茂平次』『贋作(うそばっかり) 天保六花撰(えどのはなし)』『江戸風狂伝』『ぎやまん物語』『春遠からじ』『化土記(けとうき)』などの鮮やかな着想と豊かな物語性に彩られた作品が証明している。
 前述したように「慶次郎縁側日記シリーズ」は、市井人情ものの名手として名を馳せた作者の充実ぶりを余すところなく伝えたものとなっている。特に本書『傷』はシリーズのスタートとして申し分のない出来を誇っている。その特徴と読みどころを紹介する。
 第1の特徴は、緻密な計算の上に組み立てられた物語の構造である。本書には冒頭の「その夜の雪」を含め、「律儀者」「似たものどうし」、表題作「傷」など11編の短編が収録されている。単行本刊行ペースで見ると『その夜の雪』が94年、『傷』が98年となっている。どうしてこんなタイムラグが生まれたのか。この疑問に作者は次のように答えている。

 が、それでも書き足らず、短編集を刊行する時にさらに50枚あまりを書き加え、タイトルも「その夜の雪」に変えた。それでも書き終えたという感じはなかった。
 俗な言い方をすれば心に傷を負って生きている慶次郎や辰吉、吉次、幸せとは平々凡々とした暮らしにあると私にまで教えてくれた島中賢吾にかこまれていたかった。言い換えれば、もっと書きたかった。
 幸い、週刊新潮が大勢の方々による短編連載を企画し、私にも依頼が来た。間をおいて2篇を書かせていただくことができ、「傷」と「饅頭の皮」が活字となった。それを読んで下さった当時の小説新潮編集長から、シリーズにしないかと声をかけてもらった。

『似たものどうし』慶次郎縁側日記傑作選

 留意しておきたいのは、「その夜の雪」のあとに続編として『雪の夜のあと』(97年、読売新聞社)がシリーズ唯一の長編として書かれていることだ。「その夜の雪」は半月後に祝言を控えた愛娘が暴漢に襲われて自害。仏の異名を持つ定町廻り同心・森口慶次郎は自害した娘の遺書を懐に復讐のために必死の探索行を開始する。仏の異名をかなぐり捨てたのである。『雪の夜のあと』は執拗に犯人の足跡を追う慶次郎と、逃げる犯人との追いつ追われつする姿が見せ場となっている。非情なタッチに拘った北原版ハードボイルドといえよう。人の持つ愛憎と怨念の底にあるものを見据えようとする作者の視線に、市井人情ものの新たな可能性を感じさせた。
 この2作を経ることで慶次郎の人物造形は幅と深みを増す。しかし、人間の底にある悲惨さを目の当たりにした慶次郎の在りようは、過去の同心時代とはまったく違っていた。「縁側」となっているのはそれが理由であり、実にうまい命名である。「その夜の雪」の冒頭に登場する陽当たりのいい縁側ではないが、一度鬼になったことで慶次郎には、同心時代にはなかった振幅ができた。持ち込まれた事件を探索する行動の根底には、事件を起こす人間への深い洞察力が息づいているし、温かく受け止める優しさも加わっている。この慶次郎の立ち位置こそ本シリーズの肝であり、ありふれた市井人情ものと一線を画す新たな可能性を示している。この物語構造に戯作者としての成熟が反映されている。
 第2の特徴は、人物配置の妙と巧みな人物造形にある。例えば、慶次郎は家と同心株を、三千代の許嫁であった婿の森口晃之助とその妻の皐月に譲っている。この血の繋がりのない3人が三千代へのそれぞれの思いを内奥に抱え、相手を思いやりながらの何気ない日常を描いた場面は、慶次郎を庶民の実生活に繋ぎ止める臍の緒となっている。「片付け上手」にその雰囲気が軽やかな筆運びで描かれている。加えて南町奉行所の定町廻り同心・島中賢吾、そのお手先である辰吉、上野不忍池に臨む料理屋「花ごろも」のお登勢など個性豊かな常連が、慶次郎を支える役割を持っている。これこそ人物配置の妙である。
 次に人物造形を見てみよう。人気投票をしたら上位を占めるのは、吉次と佐七であろう。吉次は北町奉行所の岡っ引で、通り名は蝮の吉次。蝮のように探索は執拗で、同心時代の慶次郎も一目置いていた存在である。妹思いで、惚れた女と所帯を持つと、金で不自由させまいと、たたけば埃の出そうな奴を探して強請りに精をだす。ところが恋女房に息子を連れて駆け落ちされ、現在は妹夫婦の営む蕎麦屋の2階に居候している。世間ではワルと思われ毛嫌いされている。しかし、本性は人に優しく接しようとしても斜に構えてしまうのである。こういった屈折した人間臭さと、心の底に傷を抱えた陰翳が造形に施されている。こんな吉次の生きざまがストレートに伝わってくるのが、空樽売りの少年・源太とのエピソードを描いた「似たものどうし」。本書の中でも屈指の名篇で、一番の読みどころとなっている。
 一方の佐七は吉次とは正反対のキャラクターといえる。慶次郎は酒問屋山口屋の寮の寮番として雇われ、隠居生活をしている。佐七はその寮の飯炊きで先輩という役柄である。新参者の慶次郎に寮番の雑用を仕込もうと躍起になるのだが、全く役に立たない。何かとぶつかり、口喧嘩も絶えないが妙に馬が合う存在となっている。この佐七の無邪気さが慶次郎の新しい立ち位置となった縁側を、座り心地のいいものに引き寄せていくのである。2編目に収められた「律儀者」の冒頭を読むとよくわかる仕組みとなっている。つまり、作者は「その夜の雪」と新たな事件簿の開始を告げる「似たものどうし」との連結器として「律儀者」を設定したのである。
 以上のように人物配置の妙と、巧みな人物造形が融合し、各自が自分の役柄を精一杯生き、慶次郎を中心とした輪を作り出している。 
 輪は動体で1話ごとに濃さを増し、心の傷を包み、情の濃さを増していくという独特の世界を創っていったのである。作者がいかに登場人物を慈しみ筆を運んでいったかが窺える。稀有なシリーズといえよう。縁側に座った慶次郎が人々の心を潤し、江戸の粋と人情の本質を示してくれる作者畢生の大作で、病と闘いながら書き続けた晩年ならではの貴重なシリーズである。本書はその世界を堪能するための貴重な一歩となる。

(きくち めぐみ/文芸評論家)


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