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今日はハロウィンですが…日本の「地獄」のこと、あなたはどのくらい知っていますか?

 子どものころは、地獄と言えば「閻魔王」だった。でも実施には、閻魔王がどんな存在で、何をしているのか知っていたという人はあまりいないだろう。幼少時から閻魔王の存在に興味をもち、地獄について研究してきた国文学者の星瑞穂さんが著書『ようこそ地獄、奇妙な地獄』(朝日選書)で明かした閻魔王の正体とは?

 子どもの頃に「嘘をつくと地獄の閻魔(えんま)様に舌を抜かれる」と大人に脅かされた経験はあるだろうか。筆者は小学生の頃、両親や祖父母に「閻魔様」を持ちだされるたびに「閻魔王があの世の裁判官だったら、そんな仕事はしないはずだ。直接罰を与えるのはもっと下っ端の役人ではないか」と、口答えしていた覚えがある。

 実際のところどうなのだろうと、随分とあとになってから自分の発言に疑問を持ったこともあった。お盆や法事、またあるいは寺社に行って地獄絵などを見たとき、頭のどこかにいつもこのことが引っかかる。

 大人になっても、どうもそのことが気に掛かって、大学の勉強や研究もよそに地獄についての書物を調べ始めた。すると確かに、私の屁理屈に反して閻魔王が自らの手で罰を与えることもあるらしい。

 ところが、閻魔王の下には「冥官」という冥途の役人や、さらには亡者に罰を与える「獄卒」という地獄の使者もいて、それぞれ仕事を分担していることもわかる。さらには、「地獄の閻魔様」と慣用句のように言うけれども、閻魔王が地獄にいるとは限らないことが判明し、そのうえ、地獄がどこにあるかも時代と場所によって変遷してしまうことまでわかった。

 結局のところ、地獄の場所や構造はひとつに断定できず、曖昧模糊(あいまいもこ)としてなんだかよくわからないというところまで、ぐるっと一周して戻ってきてしまったのであった。

 ただ、はっきりとわかったのは、現代でもしばしば「地獄の閻魔様」と口にするわりには、王のことをしっかり理解している人など、(筆者も含め)ほとんどいないということだ。

「あの世」にいる、なんだかおそろしげな存在――そんな感じ。

 あらためて知ろうとすれば、現代に至るまで日本人の心に生き残り続けてきた理由、また十王(じゅうおう)の中でなぜ閻魔王だけがこれほどの存在感を放っているのか――などと、次々と疑問が湧いてくる。

 そこで本コラムでは、閻魔王をはじめとする冥界(めいかい)の10人の王(十王)や、その下で働く冥途(めいど)の官僚である冥官、そして亡者に罰を下す現場で働く獄卒など、地獄をめぐる主な登場人物と、彼らの役割について、仏典や説話を中心に繙(ひもと)いてみたいと思う。

 するとそこには不思議と人間味あふれる「地獄」で働く役人たちの様子がほの見えてくる。

『ようこそ地獄、奇妙な地獄』第1回

『春日権現験記(模写)』国立国会図書館蔵 明治3年写(原本は鎌倉時代に制作)/地獄の様子を描いた場面。焼けた鉄の縄を渡る亡者、湯に落ちる瞬間の亡者、湯の中でもがいてる亡者の姿もみえる。右にいる黒装束の人物は春日明神

■閻魔王は何者か

 まずそもそも、閻魔王とはいったい何者なのか? 平安時代末期から日本で信仰されてきた経典「十王経(じゅうおうきょう)」によれば、彼は「あの世」を司る10人の王の1人だという。この10人の王こそ「十王」と呼ばれ、深い信仰を集めてきた。なぜなら彼らが亡者を裁き、その罪の深さに応じた罰を定めると考えられてきたからだ。もちろん、この10人の王による裁判で最も重い判決こそ「堕地獄(だじごく)」で、罪の重い亡者ほど地獄の下層へと送られることになる。

 つまり、慣用句的に「地獄の閻魔様」と呼ぶことも多いが、実は罪の深さを裁く閻魔王がいるのは地獄の手前ということになる(この世界を「あの世」と「この世」の境目として「中陰(ちゅういん)」や「中有(ちゅうう)」と呼ぶ)。

 もっとも、『往生要集』では、閻魔王は地獄の中にいることになっているし、説話集でも閻魔王が地獄にいるような描写が散見される。このあたりの理解はかなり曖昧だ。むしろ十王の中で最も代表的な存在の閻魔王だからこそ、堕地獄の判決を下す存在として地獄のイメージと強く結びつけられた結果、描写が揺れることになったのだろう。

 先にも述べたが、そもそも10人もの王がいるなかで、なぜ閻魔王のみがこれほど注目されたのか。その理由は、彼の存在の起源を遡(さかのぼ)ることによって、いくらか明らかになる。

 実は閻魔王のモデルとなったのは、「ヤマ(Yama)」という古代インドの神だ。古代インドの神話を収めた『リグ・ヴェーダ』(紀元前15世紀~同10世紀頃の成立)によれば、彼は世界で最初の人間だった。そして、世界で最初に死に、最初に「あの世」に赴いたので、冥界を支配するようになったという。

 筆者はかつて、留学生の教え子に「閻魔王とは、どこの国の出身か」と尋ねられたことがある。

「あの世」に国籍という概念があるかどうか、はなはだ疑問であるが、あえて答えるなら、彼はインド出身だ。

 だが、私たちの頭の中にある閻魔王の姿はどうだろう? 冠をかぶり、笏(しゃく)を持ち、袖の広がった服を着てはいないか。まるで中国の装いのように。

「ヤマ(Yama)」の存在はその後ヒンドゥー教に引き継がれ、仏教にも入り込んだのだ。そして漢訳されて「閻魔」と呼ばれ、中国で道教と混ざり合いながら信仰を集めるようになり、閻魔王は、古代中国の役人の姿で描かれるようになった。

 そして「あの世」と「この世」の境目には、閻魔のほかにも、亡者の罪を裁く王がいると考えられるようになる。こうして中国で生まれたのが十王信仰だった。

 かつてシルクロードの要衝として栄え、石窟(せっくつ)寺院でも知られる敦煌(中国の甘粛省)では、『預修十王経(よしゅうじゅうおうきょう)』という経典が発見されている。『預修十王経』が成立したのは唐の時代(618~907)である。それから間もない平安時代中期頃に作られた漢詩文には、この『預修十王経』の影響が見受けられる。日本の十王信仰は、すでにこの頃に出発していたといえそうだ。

 ただし、日本の古典文学に大きな影響を与えたのは、日本で作られた『地蔵十王経』のほうだといわれている。「三途の川」の伝説が日本で広まったのにも、この『地蔵十王経』が大きな役割を果たしている。『河海抄(かかいしょう)』が『地蔵十王経』の影響を受けているのはすでに述べた通りで、日本で十王信仰が高まってくるのは平安時代末期から室町時代のことである。

 さて、こうして中国産の『預修十王経』と日本産の『地蔵十王経』の二つをルーツに「十王信仰」が日本に広がっていった結果、「十王経」やそれに関連する仏書の様々なバリエーションが生まれた。内容にはそれぞれ特色なり差異があるが、基本的には『預修十王経』と『地蔵十王経』のいずれかに遡ることができるといっていい。


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