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「戦国時代はグローバル化の大波の影響を抜きに語れない」朝日文庫『徳川家康の大坂城包囲網』著者・安部龍太郎氏が新たに書き下ろした“まえがき”を特別公開!

 安部龍太郎さんの朝日文庫『徳川家康の大坂城包囲網 関ヶ原合戦から大坂の陣までの十五年』が刊行されました。伏見城、名古屋城、今治城など、関ヶ原以後15年に亘って巨大な要塞群を作り続けた家康。大河小説『家康』の著者が、城を歩きながらその真意を探る歴史紀行です。本書の刊行によせて、著者の安部龍太郎さんが新たに書き下ろしたまえがきを掲載します。

安部龍太郎『徳川家康の大坂城包囲網 関ヶ原合戦から大坂の陣までの十五年』(朝日文庫)
安部龍太郎『徳川家康の大坂城包囲網 関ヶ原合戦から大坂の陣までの十五年』(朝日文庫)

関ヶ原から大坂の陣へ

 本書のあとがきに2008年11月とある。もう15年も前のことだ。それなのにこうして再版していただくのは大変有難く、感謝にたえない。

 久々に読み返して驚いたのは、あとがきの中で将来の自分へ宿題を出していることだ。当時は「真相は謎のベールにつつまれたままである」と感じていたことが、その後の調査や小説の執筆によって少しずつ分るようになってきた。

 再版に当たって加筆を求められたので、そのことについて仮説(新説)をまじえて記してみたい。

 関ヶ原の戦いの意味を知るためには、戦国時代とはどんな時代であったかを正確にとらえ直す必要がある。

 従来は鎖国史観にとらわれていたために、戦国の争乱を国内的な視野だけで解釈してきた。ところが最近では鉄砲に使う硝石(火薬の原料)も鉛(弾の原料)も、大半は海外からの輸入に依存していたことが明らかになった。

 織田信長は鉄砲の大量使用によって天下を取った(取ろうとした)と当たり前のように言われてきたが、鉄砲を使うために必要な硝石や鉛をどうやって入手したかという視点はすっぽりと抜け落ちていた。

 ところが近年、この二つが輸入に頼っていたことが明らかになったために、戦国の争乱を鎖国史観で語ることは完全に無意味になった。そしてこの二つが主に南蛮貿易によって入手されていたことも分ったために、ポルトガルやスペイン、そして両国との仲介役を務めたイエズス会の存在がきわめて重要視されるようになった。

 戦国時代は大航海時代というグローバル化の大波の影響を抜きにしては語れないことが明確になったのである。南蛮貿易の相手国は初めはマカオに拠点をおくポルトガルで、イエズス会はポルトガルのために外交官と商社マンの役割をはたした。

 イエズス会の仲介がなければ南蛮貿易に参入できず、硝石や鉛を入手できない。西国(特に九州)の多くの大名が競うようにキリシタン大名になったのは、信仰の魅力ばかりではなくこうした現実的な問題もあった。

 南蛮貿易における日本の最大の輸出品は金や銀だった。石見銀山、生野銀山などで生産された純度の高い銀は世界の垂涎の的になり、日本にシルバーラッシュをもたらした。

 次に重要なのは硫黄である。これも火薬の原料として欠かせないものだが、東アジアには良質の硫黄はあまり産出しない。そのため植民地獲得競争をくり広げていたポルトガルやスペインなどは、日本の硫黄を喉から手が出るほど欲しがった。

 こうした貿易の活発化によって日本もグローバル化に参入していったが、そのために国内でも大きな変化が起こった。ひとつは商品と貨幣の流通量が飛躍的に増大し、経済の中心を商人や流通業者が担うようになったことだ。

 もう一つは農本主義的な制度だった室町幕府の守護領国制が崩解し、商業、流通を現地で支配していた戦国大名が台頭してきたことである。

 その結果、日本は空前の高度経済成長期を迎えることになった。それを象徴するのが安土城を初めとする城の建築ラッシュであり、絢爛豪華な安土桃山文化である。

 室町時代は農本主義、分権主義が主流であり、戦国時代は重商主義、中央集権主義が主流となった。その路線を突き進んだのが信長であり、受け継いで完成させたのが秀吉だった。

 ところが重商主義は海外に市場を求め、中央集権主義は国内の矛盾をそらすために植民地を獲得しようという欲求に駆られがちである。秀吉も同じで、朝鮮半島ばかりか明国まで支配しようとしたが、文禄・慶長の役は失敗に終わり、日本は国家再建に向けて動き出さざるを得なくなった。

 これは明治政府が海外侵攻政策を取り、昭和20年の敗戦を迎えたのと同じ構図であり、秀吉の後を担った徳川家康や石田三成たちは、日本をどう再建するかという重い課題に直面することになった。

 三成ら豊臣家の官僚は、豊臣政権の重商主義、中央集権政策を修正した上で継続しようとし、これには南蛮貿易の利益にあずかることができる西国大名の多くが参同した。

 ところが東国大名は貿易に参入できる機会は少なく、伝統的に鎌倉・室町幕府の農本主義、地方分権を支持する土壌があった。しかも家康はこうした手法で関東8ヶ国の再建をはたしている。そこでこの政策を全国に展開する政策を打ち出し、東国大名の支持を集めた。

 つまり関ヶ原の戦いは国家再建の政策をめぐる戦いであり、これに勝った家康が幕藩体制という地方分権、農本主義政策によって、国家の再建に取り組むことになったのである。

 2020年9月に放送されたNHK-BSプレミアム『大戦国史「激動の日本と世界」』は、海外の研究者の論考をまじえてこうした史観を見事に描いているので、興味のある方はぜひともアーカイブでご覧いただきたい。

 こうした史観を土台にして考えれば、大坂の陣が豊臣家を滅ぼすために徳川家が仕掛けた陰険な謀略だという見方は成り立たないことがお分りになるのではないだろうか。

 関ヶ原の戦いに敗れた豊臣政権側の立場に立って考えてみよう。敗戦によって政権を失ったものの、関白家という立場と徳川家の主家に当たるという名分、摂津、河内、和泉3ヶ国の支配権は確保することができた。

 石高にすれば70万石弱だと言われているが、この土地には石高などでは計れない莫大な価値があった。国際貿易港である堺と国内交易の要である大坂湾を抱えているからだ。詳しい記録はないが、両港から上がる津料(港湾利用税)と関銭(関税)だけで徳川家に匹敵する収入があったものと思われる。

 この有利さを生かすためには、南蛮貿易を維持しなければならない。そのためには前述したようにイエズス会とスペイン(ポルトガルは1580年にスペインに併合されている)との関係を良好に保っておかなければならない。

 そこで豊臣家ではイエズス会を優遇し、大坂城下にいくつもの教会を建てさせた。また太陽の沈まぬ帝国と呼ばれたスペインに接近し、幕府に対抗できるだけの軍備をととのえていった。

 これに対して幕府は、カトリックであるスペインに対抗するためにオランダ、イギリスの新教国に接近していった。オランダ人のヤン・ヨーステン、イギリス人のウィリアム・アダムスを家康が顧問として優遇したのはそのためである。

 また朱印船貿易の統制を強化して豊臣家の貿易に制限を加えようとしたが、大坂湾と堺を押さえられているために、どうしても実現することができなかった。

 家康は何度も豊臣家に転封を迫り、イエズス会やスペイン、海外貿易から切り離そうとしたが、秀頼と淀殿は頑として応じなかった。

 これは幕府が確立しようとしている幕藩体制への反逆でもある。ここに至って家康は豊臣家を排除せざるを得ないと決断し、大坂城包囲網の城郭群を築き始めたのである。

 豊臣家とイエズス会の関係を断つためにもキリシタン禁令を強化する必要があったが、このことが逆にキリシタンを豊臣領に追い込み、戦力の増大を招くことになった。大坂冬の陣の直前に10万もの軍勢がわずか1ヶ月で大坂城に結集したのは、キリシタン武士のネットワークによるものである。

 この時入城した真田信繁(幸村)もキリシタンだったことは、『十六・七世紀イエズス会日本報告集―第II期第2巻』(同朋舎出版)に、「もし、(後藤)又兵衛軍が劣勢に立たされているのを見た真田フランコが明石掃部とともに新たな攻撃を仕掛けていなければ、又兵衛軍は打ち負かされてしまっていたことであろう」(210ページ)と記されていることからも明らかである。

 この明石掃部もジョアンの洗礼名を持つキリシタンだし、後藤又兵衛もそうだったことは兵庫県加西市にある菩提寺(多聞寺)からキリシタン地蔵尊が発掘されたことで確実視されている。加西市の羅漢寺には宣教師の姿を写したと思われる五百羅漢像があるので、大坂の陣の後に多くのキリシタンがこの地に避難してきたのだろう。

 なぜここにと疑問に思っていたが、千姫が姫路藩主本多忠政の嫡男忠刻と再婚した時、化粧料として与えられた10万石に加西市も含まれていると知って謎は解けた。千姫がキリシタンであったことは、小石川の伝通院にある千姫の墓にキリシタンの陰符が刻まれていることからも明らかである(詳しくは川島恂二『関東平野の隠れキリシタン』[さきたま出版会]を参照)。

 千姫は忠刻に嫁いだ後も信仰を守りつづけ、自分の領地に迫害されたキリシタンを招いて保護したのだろう。千姫が始めた縁切寺(東慶寺と満徳寺)も、キリシタンの女性を保護するためだったという説が有力である。

 こうした背景を考えれば、家康が伏見城から伊賀上野城に至る大坂城包囲網の城郭群を築いた理由はよく分る。関ヶ原の戦いの後も豊臣家は関白家という権威と巨大な経済力を持ち、イエズス会やスペインの支援を得て、幕府に対抗しようとしていた。

 万一対応を過れば、豊臣ゆかりの大名家までが幕府の敵に回り、再び日本を東西に分ける大乱になる恐れがある。それを避けるためには、周到な準備と石橋を叩いて渡るような慎重さが必要だったのである。