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つながる短歌

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千年を経て愛される和歌と近現代の短歌。二首を比較しながら人々の変わらない心持ちや慣習に思いをはせ、三十一文字に詰まった小さくて大きな世界を鑑賞する『つながる短歌100 人々が心を…
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#和歌

岡本太郎の母・かの子が詠んだ「多摩川」 歌と訣別してもなおその根底には歌が

 人間は「どこか」で生まれ、「どこか」に居ながら生きていくもので、土地や場所との結びつきを抜きにして過ごすことはない、と言ってもいいでしょう。その場に居ながらにして世界中とのやり取りが可能な時代に生きる私たちは、しばしばそのことを忘れそうになりますが、この身が「どこか」にあることに変わりはありません。『万葉集』の時代から、歌に地名がさまざまに詠み込まれてきたのは、根源的なことなのです。  歌に詠まれた名所は「歌枕」と呼ばれ、時代を超えて歌い継がれていきます。  歌枕は、都

在原業平の「都鳥」と若山牧水の「白鳥」 旅が育んだ歌の深み

 在原業平の生きた時代は9世紀(生没年825~880)。『古今集』の成立(905年頃)前夜といった感があります。漢詩が優先された時代に、業平は和歌を盛んに詠み、『伊勢物語』では東下り(関東地方への旅)をしています。立身出世に背を向けて都を離れ、仕事とは縁のない漂泊の旅を続けて、さまざまな恋愛経験を積む。ほかの人にはできないようなことができた特別な身分でもあったわけですが、生まれとか立場とかそういうものから自らを遠ざけて、業平は一人の歌詠みであろうとしたのではないかと思えます。

与謝野晶子の真骨頂 「金色のちひさき鳥」で表現する“秋の発見”

 歌の世界では、季節を表す新しい風物は、誰かに見いだされて詠まれ、それに伴って言葉もまた磨かれていきます。 「夕されば」の歌の「門田の稲葉」「蘆のまろ屋」には、“田園の発見”と言ってもいいような新しい感覚が込められています。源経信が、京の西、梅津の里にあった源師賢の山荘を歌人たちと訪れたときに「田家秋風」という題で詠みました。 「夕されば」は、夕方になると、という意味です。秋の夕べがやってくるのを、歌人は感覚を鋭くして待っているようです。  家の門の近くに田んぼがあって

目の病を抱えた三条院と北原白秋が生きる証として残した「月」の歌

 三条院は藤原道長が全盛期を迎えようという時代、1011年に天皇として即位しました。三条の母は藤原兼家の娘・超子。道長は兼家の子、超子は道長の同母のきょうだいですから、道長にとって三条は甥にあたるのです。しかし、兼家はすでに亡くなっており、道長は自らが外祖父として権勢を振るうべく皇太子を立て、三条は在位中、道長にずっと圧迫されていました。  詞書に「例ならずおはしまして」とあり、三条は重い目の病にかかっていたといわれています。三句の「ながらへば」、つまり、もし生きながらえた