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つながる短歌

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千年を経て愛される和歌と近現代の短歌。二首を比較しながら人々の変わらない心持ちや慣習に思いをはせ、三十一文字に詰まった小さくて大きな世界を鑑賞する『つながる短歌100 人々が心を…
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2022年1月の記事一覧

与謝野晶子の真骨頂 「金色のちひさき鳥」で表現する“秋の発見”

 歌の世界では、季節を表す新しい風物は、誰かに見いだされて詠まれ、それに伴って言葉もまた磨かれていきます。 「夕されば」の歌の「門田の稲葉」「蘆のまろ屋」には、“田園の発見”と言ってもいいような新しい感覚が込められています。源経信が、京の西、梅津の里にあった源師賢の山荘を歌人たちと訪れたときに「田家秋風」という題で詠みました。 「夕されば」は、夕方になると、という意味です。秋の夕べがやってくるのを、歌人は感覚を鋭くして待っているようです。  家の門の近くに田んぼがあって

目の病を抱えた三条院と北原白秋が生きる証として残した「月」の歌

 三条院は藤原道長が全盛期を迎えようという時代、1011年に天皇として即位しました。三条の母は藤原兼家の娘・超子。道長は兼家の子、超子は道長の同母のきょうだいですから、道長にとって三条は甥にあたるのです。しかし、兼家はすでに亡くなっており、道長は自らが外祖父として権勢を振るうべく皇太子を立て、三条は在位中、道長にずっと圧迫されていました。  詞書に「例ならずおはしまして」とあり、三条は重い目の病にかかっていたといわれています。三句の「ながらへば」、つまり、もし生きながらえた

「秋ぐさ」で詠む“恋の歌” 花に話しかけ、花の言葉を聞く歌人の想い

 僧正遍照は『古今集』「仮名序(かなじょ)」で、六歌仙(ろっかせん)の一人に挙げられている有名歌人。『古今集』が成立する少し前の九世紀を生きた人で、小野小町との贈答歌もあります。桓武(かんむ)天皇の孫で、良岑宗貞(よしみねのむねさだ)として仁明(にんみょう)天皇に仕え、天皇崩御ののちは僧侶になって確固とした地位を築いたエリート。ですが私はむしろ、出自のよさや安定した身分から自由になり、歌に対する評価にとらわれずにくつろいで詠もうとした歌人、という印象を持っています。  百人

和歌や短歌で詠む「秋」 歌人が表現する“人それぞれの秋”の見事さ

 藤原敏行は平安前期の歌人で、能書家としても知られ、紀貫之と親交があったようです。貫之より年上かと思われますので、歌人としても先輩格であったのかもしれません。「秋きぬと」は、『古今集』「秋歌」の冒頭に、「秋立つ日よめる」として置かれ、その次には貫之の歌があります。  賀茂(かも)川の川辺で貴族たちが遊ぶのにお供して、そこで感じた涼しさを詠んでいます。川を渡る涼しい風にまず注目、その風によって川に波が立ち、 そこから結句「秋は立つ」という言葉を呼び込んで秋の到来(立秋)を告げ

和歌と短歌で詠まれた「黒髪」 与謝野晶子が表現した新しい世界とは

 黒髪は、王朝時代の女性の美の象徴。物語では女性の姿をとらえるときに、歌では心を託すものとして、多彩に表現されてきました。  待賢門院堀河は、院政期(平安時代後期)の女房歌人の一人。百人一首にも入るこの歌は、後朝(きぬぎぬ)の心境を、黒髪の「長さ」と「乱れ」でたどります。  初句「長からむ」が相手の気持ちの定かでないことを心配する気持ちを表し、「黒髪」を縁語(えんご)として下(しも)の句(四句と結句の七・七)を引き出します。歌の意味の中心は下の句なのですが、上(かみ)の句