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父さんへの最後の願い
父が突然の病に倒れた。その時点で、もう長くて3カ月しか命がないことがはっきりと分かった。それはもう明白だった。
それからわたしの中にひとつの願いが生まれた。
最後に、きちんとわたしの父親になってほしい。
これから、父さんがいない人生を生きていく上で支えとなる言葉を下さい。
長い間、父のことが嫌いだった。すぐ怒鳴るから怖いし、話すこともないし。60で定年を選択した父は、長年の夢だった山小屋暮らしを始め、気づけば3年程会っていなかった。実質的には離婚だった。
病室でやせ細り、声がほとんど出ない父と3年ぶりの交流が始まった。誰が見ても圧倒的に病人だ。なのに本人は病気にも気づかず、当然病院にも行かず、自宅で動けなくなるまで一人でいた。
雪が積もる標高千メートルの父の自慢の山小屋に初めて行った。室内に入った瞬間、あまりの寒さに声が出なかった。台所のやかんの中の水は凍結していた。
和室には、最低限動かなくても暖が取れるようにこたつと敷布団が併設されていた。昔からよくなめていたマヌカハニーのど飴の袋の残骸がこたつテーブルの上に散乱していた。喉が痛かったのだろう。だって、腫瘍が声帯に転移し、声が出なくなる程圧迫されていたんだから当然だ。
「こんな飴じゃ勝てないよ」と思わず声が漏れた。
ていうか、知ってる?父さん、あなたの腫瘍は声帯どころでなく、頭の骨から足の骨まで、それにあらゆる臓器に転移しているんだよ。そのせいで、カルシウムが溶け出して脊髄も折れているんだって。どうして、どうやってこんな山奥でひとりで誰にも何も言わずに暮らしていたの?
病室に入ってお姉ちゃんが泣きながら聞いた。
「なんで何も言わなかったの?」
父さんは言った。
「寂しかった」
涙が止まらなかった。
家族のことを考えると本当に嫌になる。なんでこんなに近い関係なのに、なんでこんなにうまくいかないんだろう。一緒に住んでいた時から優しくできない度に悲しくてやりきれない気持ちだった。わたしの代わりに誰かがこのおじさんに優しくしてくれていればいいなと思っていた。
でも、もう素直になる時だ。父さんはもういなくなる。せめて、残りの僅かな時間は寂しいなんて思ってほしくない。
「そばにいるからね」。そう声をかけた。
亡くなる2日前、病室に泊まり込んでいる母さんとお姉ちゃんとテレビ電話を繋いでもらった。薄暗い病室の中で、父さんはこれまで見たことないような優しい目をしていてどきっとした。
母さんが「子どもたちに言いたいことある?」ときいてくれた。
「気楽にやれよ」
「また4人で会おうな」
父さんはかすれた声でゆっくりと伝えてくれた。
嬉しかった。わたしの願いを叶えてくれた。この言葉と共に生きていこうと思った。
私も伝えた。
「父さんのお陰で、本も好きになったし、山も自然もすきになった。父さんの子でよかったよ」
最後に、「母さんに言いたいことある?」と聞いた。
「側にいたい」
ほとんど声にならない声でつぶやいた。
これが父さんの最後の言葉だった。
あれからもうすぐ5カ月。
父さん、ありがとう。
仕事で思い詰めて、不安になったり働きすぎたりする時に、父さんの言葉を思い出すよ。あまり言葉を交わすことはなかったけど、父さんよくわたしのこと見ていたんだね。それに不思議なことに、父さんが昔働いていた国、わたしが生まれた国で今わたしは働いているよ。
「気楽に気楽に」
そう今日も自分に言い聞かせて、明るい方へ明るい方へ歩いていきます。
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