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⑩植民地下のソウルで、祖母は帝国少女だった

ある日を境に、祖母の口からぽつりぽつりと家族のはなしが語られはじめた。

その内容も、タイミングも、時間も、祖母次第だ。

夕飯を食べている時、お茶を飲んでいる時、テレビを見ている時――

60年の間、かたくなに閉ざされ、心の奥底深くにしまわれていた記憶の扉。その重石がわずかにずれて、なにかの瞬間に記憶の一部に光が届いたとき、少しの沈黙のあと、「あの頃はね……」という言葉がもれる。

日本に来たばかりのころの生活のこと、母親に初めてハングルを教えてもらった日のこと、小学生の時に疎開していたころのこと、学校の先生として子どもたちに国語を教えていたころのこと――。語られる記憶は、国も時代も自由に超えて、行ったり来たりする。

それは5分だったり、30分をこえて続くときもあった。

***

祖母は、姉1人、兄1人、弟2人、妹2人の7人きょうだいだったそうだ。

8歳上のは24歳で病気で亡くなり、8歳下の妹も24歳の時に脳腫瘍で亡くなったという。

妹が病気になったのは、手紙で聞いてね。でも、どうしようもないでしょ?あの頃(1960年代)は、自由に行き来できる状況じゃなかったから。普通の国民が旅券なんてもらえない時に、なんとか日本にきたのに、戻ったら二度と出てこれなくなるでしょう。こっち(日本)の生活ダメになっちゃうもんね。

あの頃は、大手町にひとつだけ韓国の銀行があってね。円からウォンへの送金が直接できなかったから、ドルを持っていって。1ドル360円、1カ月の給料が7万円の時代。1000ドルだから……えーっと、大体36万円ね。給料5カ月分。医者代とか手術費として。

韓国には、何かある度に、そうやってせめてもでお金送ったのよ。もちろん母が亡くなった時もよ。行かれないから、申し訳ないけど、これでお墓つくってくださいって。

渡航の自由が制限されていた時代。韓国を離れるということは、もう二度と親にもきょうだいにも会えないということ。それはもちろん、最期の別れにも立ち会えないことを意味していたのだ。

***

当時いちばん知りたかったことは、植民地支配を受けていたことをどう受け止めているのかということ。そして、母国を支配していた国で暮らすということをどう捉えているのかということ。

つまり、生きていくために日本人として暮らすという選択と、朝鮮半島出身者への差別という現実を、どうやって天秤にかけていたのか、ということだった。

わたしから話を切り出すことにためらいはあったけれど、ある日祖母に聞いてみた。

「おばあちゃんはさ、韓国と日本についてどんな印象をもっているの?」

どういう意味で?政治的に?

「なんていうかな……もう完全に日本人という気持ちで韓国と日本をみているの?」

わたしは日本にきてから、歴史の勉強もよくしたんだよ。だから、どちらも歴史を正しく解釈してほしい。それだけのことよ。人は悪くないんだよ、どっちも。

本意を掴み切れず、重ねて聞く。

「おばあちゃんが小学生の時は、学校で日本はいいことをしていると習っていたんだよね?」

もちろんよ、その時は。八紘一宇とか大東亜共栄圏とか言ってね。

すると、突然。

ちんおもうにわがこうそこうそう、くにをはじむること……

わたしを真っすぐ見て、流れるように朗々と暗唱をした。ギョッとする。

「えっ……なに?」

教育勅語よ。あんたも知ってるでしょ。

言葉に詰まっていると、続けてこう言う。

帝国少女だったのよ、わたしは。戦時中、小学生のころに、自主疎開したのね。父と兄は、家を守るためにソウルに残って。今考えると、場所はよくわからないんだけど。途中まではバスに乗って、そこからは川沿いに山と渓谷を越えて何里も歩いていって……

半日くらい歩き続けて、岩場をぴょんぴょん飛んで渡っていくと、細い山沿いの道があって、広い田んぼと畑が見えてくるの。そこに小さな村があってね。10軒もなかったんじゃないかな。

そこにいると退屈でしょう?だから、川に行って遊んだりね。でも、川べりに座って山からちょろちょろと流れてくるせせらぎを聞いていると、軍歌に聞こえるのよ。涙をぽろぽろ流しながら、『わたしも挺身隊にいきたいなぁ。なんでこんなところにいるんだろう』って。

「思ってたの?」

もちろん。男の子なら、戦争に行きたいと思う。女の子は、挺身隊に行きたいと思う。本当はそれがどんなことを意味するかなんて、知らないんだよ。ただ、日本が自分の国だと思っているからね。中学生は、みな行ってると聞いてたから、わたしも学校行ってたら行けてたのになぁって悔しかったのよ。

今までまったく知らなかった祖母の姿が浮かび上がって、戸惑う。

「でも戦争が終わって、中学に入るとその考えが反対になるんだよね?日本に対して、悪い印象はもたなかったの?」

先生たちも、日本が悪いとかそんなことは言わなかった。とりあえず現実を見るだけで精一杯だったんじゃないかな。今は競争が激しくなってお互い競ったり睨みあったりするかもしれないけど、あの頃はそれどころじゃないわ。

ただ、今日この子たちに何をどう教えようか。それだけよ。本がない。教科書がない。あぁそうだ。韓国語の教科書がないから、先生だけが日本語の教科書を見て、黒板に韓国語に書いていってね。私たちの国には、こういう文字と文化があります、ということも習って、面白いなとは思ったよ。

***

知るたびに、驚く。
そして、少し混乱する。

目の前の祖母と、祖母が経験してきたことと、歴史の年表が実感を伴ってリンクしないからだ。

1910年の日韓併合は、分かる。
でも、1910年~1945年はずっと日本語教育ではなかったのだろうか?祖母は日本人以上に日本語をよく知っているのに、なぜ3歳下の弟は「こんにちは」しか覚えていないのだろう。
1940年の創氏改名で、本当に祖母も名前も変えたのだろうか?今の名前はその時につけた?生まれたときはどんな名前だったんだろう。

歴史の年表で示される点と、ひとりの人の歴史が、単純に結びつくわけではない。そうはっきりと理解するのは、もう少し後のことだった。

歴史の年表の背後には、無数の無名の人たちの生がグラデーションのように流れている。そのたくさんの声を聴かない限り、祖母の生を歴史の流れに紐づけて理解することはできないんだろうな。この頃はただ、そうぼんやりと気づき始めていた。

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