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『WHO YOU ARE』翻訳のHARD THINGS

私が関美和さんと共に翻訳した『WHO YOU ARE』。この本はベストセラー『HARD THINGS』を書いたベン・ホロウィッツの新刊だ。起業家である私が本の翻訳をするのはワクワクするような楽しい体験だったが、初めてのことが多くHARD THINGSもあった。

https://t.co/5tCpZwTcWz?amp=1

前回(https://note.com/asaeda/n/n8dd562140169)に書いた通り、翻訳の段取りはようやく確立できた。原書を目で読んで、Audibleで聞きながら同時通訳し、その日本語の音声をAmazon Transcribeという文字起こしサービスでテキストにして、Google Docsに出力。ただしこのテキストには句読点や改行が一切入っていないので修正を入れ、また固有名詞の文字起こしが謎の日本語になっていることもあるのを修正。そのテキストをもう一人の翻訳者の関さんに渡して、関さんが適宜修正をかけていく。ここまできたらこの方法でひたすら訳していくだけだ。気を引き締め、1ページあたりにかけている作業時間をストップウォッチで測り、毎日記録していった。

まず、原書を目で読んでいき、難しい単語の辞書チェックとメモ。調子が良いときで5分で1ページくらい。次に声の録音作業。同じく5分で1ページ。それAmazon Transcribeにアップしてデータ化し、Google Docsに出力して半角スペース等を消す作業。これは5ページ30分分の音声をまとめて全体で5分くらい。その後のGooogle Docs上の文字修正などテキストを整える修正作業は丁寧にやって1ページ5分ほど。合計すると1ページに16分ほどをかけていた計算になる。

原書の最終ページ数をちらっと見ると274ページ。単純計算で73時間分の作業時間。予定していたスケジュール上は、自分が11月〜12月末までに全ページのラフ翻訳を完成させ、関さんにパスするというもの。そして12月から自分自身が新しい環境で仕事を始めることになり、そこはフルタイム仕事状態。翻訳家としては新人でもあるので、甘い仕事は許されない。取り組めるのは平日夜と土日しかない。平日に帰宅後1日2時間、土日に8時間やることを考えれば週に26時間。これを3週間繰り返せば完成させられる。バッファは年末年始休みがある。よし、今日から飲み会は全部キャンセルしよう、と判断し、決まっていた飲み会は全部延期することにした。

論理がまったく通用しない相手と共に働く

お察しの通り、そんなのが計算どおりにいくわけがない。最大の誤算は土日に予定していた作業がほぼ成果ゼロになってしまったことだ。我が家には当時1歳半の子供がいて、土曜日と日曜日は妻がヨガのインストラクター業で終日外出(10時〜18時)するため、私が子守をしなければならない。この年齢の子供は立ち上がって、歩き始めて親のいる場所に寄ってくるが、言葉はまだ話せず、○○だからXX、といった論理は一切通用しない。かといって何時間も寝てくれるわけでもない。こちらが20時に寝てほしいと思っても寝ない。寝かしつけで1時間以上同じベッドで過ごしても、寝たらおしまいかのように粘り続け22時まで起きている。

この時期の仕事ルーチンで一番やってはいけないのは「想定した時間に子供が寝ることを前提にスケジュールをたてること」と言えるだろう。子供が自分の想定外の行動をするたびに、仕事への着手タイミングが遅れることを自覚し、その苛立ちを圧縮したどす黒い塊が頭の後ろ辺りに蓄積していく。罪悪感によるストレスを子供にはぶつけてはいけない自制心をもつほど辛くなってくる。

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「ねぇねぇ」「なーに?」「でんしゃ」「そうだね電車だね(SLだけど)」


平日も見積もりミスをすることになる。なんといっても今回のスピードを出せる根拠は、声で入力する同時翻訳が前提になる。昼間は普通にメインの仕事がある。さて、平日仕事をおえて19時過ぎに帰宅するとどうなるか。料理をする音がする。テレビがついている。子供がはしゃいでいる。机に座ると袖を引っ張って「あーそーぼ」と言ってくる。たまらなくかわいい。でも爪を食い込ませてくるのだけはやめて欲しい。話が逸れた。家も狭く、書斎のような環境はない。とても音声入力ができる状況ではなかった。

なので、すべてにおいて作戦変更をまたすることになった。


ビールはおあずけ、夜の4時間でひたすら訳す

どう作業フローを変えればいいのか。

まず、このタスクは全部の章の翻訳を完成させるまで次に着手できないタイプのものではない。1章の翻訳が終わればそれを関さんにパスし、関さんが1章を手掛けているあいだに自分は2章以降の作業をやればよい。私の作業の締め切りの12月末にすべてを渡すのではなく、章が完成するごとに順次パスをしていく方針に切り替える。

次に、関さんの読解力に全依存し、1ページの工程に組み込んでいた文字起こし後の改行処理、句読点処理、固有名詞修正作業をやめる。音声データを聞いてもらうことを前提に関さんに共有する。関さんに美しくない自分の声をずっと聞かせ続けることは申し訳ないと思いつつお願いする。これで1ページ作業が16分から11分に減った。関さんからも「いいですよー」と優しい言葉をかけてもらえた。本当に感謝。難関ワードの辞書検索を減らし、初見での音声入力をすることも検討したが、翻訳ラフのクオリティが落ちすぎることを懸念し、実施はしなかった。

これでこちらの総作業時間が50時間になった。関さんの作業時間が増えてしまうことになるのを心配したが、自分の作業を終えたあとはそのまま関さんの作業をカバーしにいけると考えた。

そして、音声入力が可能な時間を強制的に作り上げた。まず、通勤時間がドア・ツー・ドアで30分程度だったため、当日翻訳予定の箇所をAudibleで聞く。子供の世話が必要で声を出せない平日夜時間と土日は、目で原書を読み、難しい単語を補足する作業と長文翻訳に特化。音声入力に関しては連続した集中可能時間を作るために家族全員が寝静まったあとに作業をすることにした。23時開始、午前3時くらいまで、または体力が尽きるまで。この期間中は夕食時のビールを禁止した。これで理論上2日に1回こうした作業日を作り出せば完成する、というのと、随時関さんにパスをしていく体制が構築できた。夜に作業に臨む体制を習慣化できた。それでも結局2月くらいまでかかってしまった。

最強翻訳家と最強編集者

さて、スケジュール調整の辛さの話はおいといて、メイキングの本題である翻訳をしていく中では、ただただ関さんの翻訳の美しさに学んでばっかり、というのが自分の立場だった。私が渡したテキストをもとに関さんが原稿を整えて共有した原稿を私、関さん、編集者の中川さんとで議論してさらに改善していく。その過程で、関さんの翻訳力を感じたのだ。

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たとえば、原文でベンが語る部分だったり、ベン自身が関わったエピソードではよく「I」が使われる。関さんは気持ちよくそういうところをバサッと切り、「私は」などとせず、ストレートに頭に入るように訳していく。原文ママで訳した場合、私のようなバイリンガル脳だったら都度「私は」と変換していたかもしれない。しかしここでは直訳をせず、日本人の頭にすっと入りやすい区切り方にしたほうが良いことを学んだ。テックメディア記事によくある英語をそのまんま直訳したような翻訳を読み慣れていた自分はついついそのスタイルにしようとしてしまうのを我慢した。とても勉強になったし、純粋に日本語力もあがった気がする。

共訳の機会をいただけたからこそ感じたものとしては、訳者同士の価値観、バッサリいく感が揃うほどスピードは上がるし、良いものに仕上がるだろうなというもの。サッカー選手同士のパスの出し方のような、ここにスルーパスを出せば彼なら走り込んでいてくれる、みたいな連携感が少しずつ作られていったところもとても楽しかった。そして楽しくなってきた頃に完成してしまうのを寂しく思ったりも。今後自分の関わるものに監修ポジションで常に関さんに入ってもらいたいと思っているほどだ。次回作なら作業見積もりも、翻訳のラフさも、校正のバランス感覚もよりスムーズにできる気がしている。

あと、あまりにもスムーズに進行していただくことからそれを当たり前のもののように思い込んでしまうもののひとつに、編集者の中川さんのファシリテーションと優しさとマネジメント力があった。感動した。心が優しくて、相手を信じ、善意ベースで完全に仕事がまわる、またはまわるように整える中川さんの凄さは一緒に仕事をしてみてますます感じさせられて、とても尊敬している。そういう人が日本一のビジネス書の編集者になるという結果は、同じように人を信じる善意ベースタイプで頑張っている人たちの心の支えにもなっているはず。いつかは日経の社長になってほしい。きっとみんな中川さんについていく。日経の上の人は中川さんの価値に気付いてひっぱりあげるべき!(と、この箇所を編集チェック時に中川さん自身に読んでもらうことを目的に書いてみた。)

仕上げの10%に最初の90%と同じ労力を要する校正作業

ほかの気付きとしては自分の担当であるラフ翻訳が終わってからどんどん面白くなっていったのがある。自分の分終わったー!達成感!関さんにパス!あとは任せた〜!と思いつつ、関さんがいかに仕事を進めやすくできるかを意識して回り込んでの作業などをしてみたり。初期にギブアップしていた固有名詞調整や句読点、文書改行処理などでフォローをし、当初関さんに渡したかったクオリティのものを後付で揃えるようなことをしてみた。どれだけ助けになったかわからないけれども。

初校ができてからは今度は英語から離れ、ひたすら日本語を読む流れに。何度も何度も読み返し、再校、再々校あたりでもどんどんブラッシュアップ案が出てくる。そしてそれが素晴らしい翻訳へと修正されていくのは最高に楽しかった。一度翻訳をしているのだから流し読みができるかというとそうでもない。深夜に書いたラブレターと同じで、初校はどうしても勢いで訳しきる要素がある。これを磨き上げていく作業にも一切手を抜けない。


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(校正作業時の赤入れ。関さんのもの)

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(浅枝の赤入れ。)

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(二人の赤入れを受け取り、中川さんが仕上げていく。言い回しなどの最終判断は中川さん。)

これを300ページ分、Google Docsで1周、紙デザインに出す(ゲラという)で通したのが2周。「パ」と「バ」の入力ミスを探したりするレベルできっちり読み込んだ。共訳だったからこその楽しみかもしれないが、「この箇所の解釈ってこうじゃない?」「いやいや、こう言ってるでしょ」みたいなやり取りや「この部分どう表現していいか悩み中〜ヘルプ!」みたいなやりとりがワードの横のコメント欄で行き交っている。翻訳作業において壁打ちができるというのは実はとても大切なんじゃないかな、と思っているところ。関さんあたりにそのへん聞いてみたいかも。誤字脱字もかなり意識してチェックしたので、『WHO YOU ARE』の誤字脱字は極めて少ないんじゃないかとちょっと自信を持っていたりする。大吟醸のお酒を作るための磨き上げ作業も同じ感じなのかな。

あとちょっとだけ続く



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