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パッケージクソゲー部はこじらせている

ぶっちゃけてしまうと、クソゲーという言葉が大好きである。ゲームライターの端くれのようなことをしているので、表立って「このゲームはクソゲーです」とは滅多に言わないが、仲間内では面白いゲームの話と同じくらいクソゲーの話をしている。そして仲間内の集まりである「パッケージクソゲー部」は、今年もパッケージ売りされたクソゲーの話で盛り上がっている。この部活は、クソゲーを個々にプレイしていたゲーマーたちの間で、今年はこのゲームがやばかったみたいなのを語り合っていたことからできたもので、今は4人の在籍者がいる。

本来、自分たちにとってのクソゲーとは、孤独にプレイし、誰に感想を話しても共感されぬどころかプレイすらしてもらえないものだったのだが、虚無を共有できると信じあえる仲間たちと出会った結果、このこじらせにこじらせた部活が生まれたのである。もちろんこれは、自分たちが信じていた「クソゲー道」に反するもので、ゲームには友達と遊ぶと楽しくなるという周知された事実がある。クソゲー自体はつまらなくても、その体験をSNSや仲間内で語ることで楽しくなったり、誇れてしまうのだ。そして日本国を代表するハートフルストーリーであるリトルバスターズ!でも、ひとりが辛いからふたつの手をつなぎ、ふたりでも寂しいから輪になって手をつないだとあるから、クソゲーに対してもみんなでなら立ち向かえてしまう。みんなで楽しむクソゲーはクソゲーのたしなみ方と言えるのかと考えつつも、我々は今集まることを選んだ。この情報の流れが速い現代に於いて、「もっとクソゲーと戦いたい」と考えるなら、それなりの情報網は必要だからだ。

我々が求めているのは虚無をもたらしてくれるゲームである。クソゲーをプレイするという特殊な体験を好んでいる自分たちですら裏切り、途中でプレイを放棄したくなるような作品が現れることを期待している。ちょっと笑えるクソゲーというのは、「やってみなよ」とそこらへんのゲーマー友達におすすめすることができる。しかし、我々が探しているのは、笑いさえ消えるような虚無をもたらす作品で、とても素人には勧められないと感じるレベルのものだ。ファイナルファンタジー5のエクスデスのように、無の力を追い求めている。

この部活では、パッケージソフトをなるべく定価に近い価格で購入することが重んじられている。定価に近い価格での購入にこだわるのは、値崩れしたクソゲーを遊んでは、費用対効果の面で「意外といけた」みたいな錯覚が生まれてしまうからだ。完全にこじれている。280円で買ったクソゲーと、7980円で買ったクソゲー。これはプレイヤーに与える精神的な負荷が明らかに異なる。他にもパッケージにこだわる理由はいくつかあって、一つは「アップデートで良ゲーになった」とかいう現象を認めないためだ。ダウンロード版の場合、ダウンロードした時点での最新のパッチが当てられていることが多く、それはグラップラー刃牙の範馬勇次郎風に言うのであればクソゲー闘争の不純物となる。上等な料理にハチミツをブチまけるがごとき思想である。発売日デイワンパッチまではセーフ、それ以降のパッチは不純物、我々のこじらせた身内ルールではこのように決められている。しかも、パッケージ版であれば、アップデートデータを消せば初期バージョンに立ち帰れる可能性が高い。

そしてこの部活では、ゲームをクリアーしなかった者に発言権はない。誰かがこれはやばいと情報をもたらしてくれたゲームに対しては、プレイして発言するか、プレイせずにスルーするかの二択しかない。世の中には、クリアーもせずにゲームを良ゲーだとかクソゲーだとか決めつける輩がいるが、我々こじらせた人間の見解では、ゲームをクリアーせずに面白いかどうかわかるわけがないと思っている。例えば、良ゲーだと思っていても終盤で崩壊するゲームは山ほどある。逆に、クソゲーだと思っていても、後半はいろいろなシステムが上手く絡み合い、見違えたように面白くなる作品だってある。そして、クリアーは発言権を得るための第一条件に過ぎない。そこから議論を深めていくうえで「どれだけやりこんだか」が活きてくる。やりこみが劣る者の意見は、よりやりこんだ者の意見に押しつぶされていく。逃げたいはずのクソゲーに、より向き合うことで我々なりの答えを見出すのだ。完全にこじらせている。

もともとクソゲーの中に浸っていた我々は、光る砂金のような渋いゲームを見つけるのが上手い方だと思っている。聖闘士星矢において、一年中火の雨がふりそそぐ灼熱の地獄デスクイーン島で修行したフェニックスの一輝が、タフな優しさを手に入れたように、クソゲー島の中で過ごすことで、許容できるものが増えるのだ。事実、世間でクソゲーと話題になった作品と対峙しても、無傷で切り抜けることの方が多い。そして世間で話題になる大半のクソゲーは、「クソゲーなんだけど、憎めない奴」ということもわかっている。さらにこじらせてる我々は、「おれがおれの彼女をブサイクっていうのは構わないが、他人がブサイクと安易に言うのは許さない。お前にこの娘の何がわかるんだ」みたいな状態になることもある。壮絶にきしょい。

しかしそんな我々でも太刀打ちできない「ホンモノ」がこの世界には存在することも忘れてはならない。わかりやすいものだと、この令和の時代にあっても、いわゆるこれ本当にデバッグどころか、通しでプレイしたのかよというソフトはわずかではあるものの確かに存在している。プレイしているうちに何度も訪れる強制終了という破局を目にしていると、だんだんと闇落ちが始まる。オートセーブ機能がなかったり、貧弱だったりするとなおダメージが高い。そういうものを遊んでいるとスタッフロールを見てデバッグ担当の会社名を眺めたり、商業メディアでゲームのレビューを探し始めることしか楽しみがなくなる。(そしてそこに良ゲーとでも書かれていたらそのメディアの滅びを祈るようになり、よりこじらせ度合いが進行する。)進行不能系のバグを多く抱えるゲームがクソゲーなのかどうかという議論もあると思うが、これは我々ドライにゴミ認定している。人様の作ったものを安易にけなすなとは言うけれど、ゲームを買ったのにプレイ不能のものが出てくるとは思わないだろ!クソゲーかどうかすら考えさせてもくれない作品は、情緒的な思考や語り合いをもたらさない。

プレイすることで滋養ある体験が得られるクソゲーは、”ゲーム内システムの使い方が良くわからない”ものに多い。中には無理やりクリアーできる作品もあれば、途中で全員が投げ出してしった作品もいくつかある。単純にゲームとしての難度が高いものではなく、「どう進めていいかわからない」系のものである。この手のソフトについては、近年随分減ってきたが、新作でも2年に1本くらいのペースで現れる。こうした作品が現れた時は、身の回りにいる、どんなゲームをあそんでも概ねポジティブな感想を述べてくれる光のゲーマーにその作品を託してみて、これがクソゲーなのか、我々の頭が追いつかないのか確認することにしている。我々は頭がそれほど良くないので、他の人ならあるいは……と望みを託すのだ。これはクソゲーじゃないんだろ。「父さんに実力見せてくれよぉぉっ」(by範馬勇次郎)的な感じでもある。ただ、行き過ぎた実験は人を壊す。気をつけよう。これもグラップラー刃牙から学んだことだ。そういう人たちすら闇堕ちさせるようなゲームは晴れてホンモノ認定となる。光のゲーマーですらクリアーできないゲームを見つけた時はゾクゾクする。このホンモノのレッテルは、見事クリアーしたゲーマーが現れるまで我々の間では剥がれない。

それほどクソゲーに惹かれつつも、自分がこれはクソゲーであると特定タイトルを(あまり)発信しないのは、人によって神ゲーと感じるゲーム、クソゲーと感じるゲームは違うという大前提があるからだ。誰かにとってのクソゲーが、別の誰かにとって神ゲーでだということも珍しくない。(たまに詐欺商品まがいのものに出会って危うく書き散らかしそうになるが、ここ数年は静まれ俺の右腕的に耐えている気もする。ただ、それでも人間なので、たまに漏れ出してしまうこともある)。

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