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生きてきたことの認証

僕にはこれまでの人生で大きく二つのコミュニティがある。ひとつは10代からだいたい30代後半くらいまでの主に地元、それも音楽で繋がる人たちとの関係。2〜3日に1回は顔を合わせ、音楽の話はもちろん、それ以外のどうでもいい話題、なりゆきに任せてどこかに行ったり。いつも皆飲んだくれていて(僕は下戸だが)今でこそ言えるが、多少道徳的でなかったり法に反したこともしていた。長くバンドをやっていたので頻繁にライブをやっていた時期もあるし、テレビに出演したりレコーディングしたり、ツアーは関西、四国、なんとフランスにまで行ったことがある。20年くらいの間にメンバーが変わることもあったし、大切なひとりが他界するということもあった。滅茶苦茶だったけど言ってみれば僕の青春といってもいいかもしれない。
でも僕らは徐々に大人になって(ずいぶん遅いけど)、だんだん疎遠になっていった。僕は40代前半に鬱病と診断されしばらく休眠状態となった。
その時偶然出会ったのがファシリテーションというものだった。鬱から徐々に脱しつつある僕はファシリテーションのNPOに入会しそこで出逢った人たちと時を共に過ごすことが多くなった。一緒に勉強会を企画したり、特に何か目的はなくても朝会をやったり、年に1回は大きなイベントにも参加した。皆、きちんと仕事をしていて勉強熱心な人たち。自律分散協働社会の実現、なんて合い言葉を持っていた。そこでの関係の面白いところは“やりたい人がやる”という暗黙の了解だった。いろんな人が出たり入ったりし続けるワチャワチャした、それなりに濃密な時間を過ごした。
コミュニティというのは生き物みたいなものでやはり幼年期も青年期もあり、どうやら老年期もあるらしい。ファシリテーションつながりのコミュニティも一時はかなり拡がったのだけど今ではごく一部の人たちとだけの関係になっている。

僕はこれまでの人生におけるこれら二つのコミュニティを互いに有機的に繋げるようなことはしてこなかった。なぜなら僕としてはそれぞれが互いにあまりにも違う価値観の集まりだったからだ。なので僕の中でもそれらは繋がることはなく、そうなると今でも続いているファシリテーションつながりのコミュニティに対して地元の音楽つながりのコミュニティはほとんど「過去」になっていた。
ところが先日、ファシリテーションつながりのコミュニティの人たちを僕の自宅に招いたとき─自宅に招くというのは初めてだった─夕食の店として地元の音楽つながりコミュニティの中の一人が経営するレストランに行ってみた。そこで食事をしながら出る話題には当然、その店と僕の関わり、そこから僕の過去の話になる。そこに店の経営者である音楽つながりコミュニティの一人が会話に加わることになる。見ていると二つのコミュニティの住人同士が何か新しい出会いをしているようだった。最初僕は少しモゾモゾと居心地の悪さを感じていたけど、でも目の前にいる両コミュニティの住人たちが楽しそうに会話しているのを見ていると何か不思議な感じが湧いてくるのだった。

その日、解散した後、招いた人たちから今日はあの店に連れて行ってくれて良かった、という旨のメールが届いた。それらを読んだ僕の中でさっきまで感じていた“不思議な感じ”の正体がなんとなくわかってきた。
それは今まであえて繋いでいなかった僕の人生の二つのコミュニティが出会ったことで僕のこれまでの人生全体が認証されたということなのかもしれないと。そして僕は両コミュニティすべての人たちに感謝したい気持ちがじんわりと湧いてきた。そう、“これまで僕の人生をつくってきてくれたのは皆さんだ。ありがとう”。そんな感じだ。

僕の残りの人生はこれまで生きてきた年月に比べるとその何分の一かだろう。そこにはどんな出逢いがあるのだろう。今のコミュニティだろうか。過去のコミュニティに戻るのだろうか。それともそれらが混ざり合うのだろうか。あるいは、まったく違うコミュニティなのだろうか。

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