洗濯機の上の亀

 それはいつの間にか咲いていた花のように、知らない間に降り出していた雨のように、唐突といえば唐突で、でもびっくりするほどいきなりでもない、そんな間合いで始まった話だった。
「いたんだよね、亀が」
 不意にそんなことを言い出したまっちゃんに、愛用しているヒッコリーのドラムスティックを片付けていた私は、んああ? と変な声で訊き返した。
「だからいたの、亀が。衣装ケースの中に」
「まっちゃんの家の?」
「違う。大学のときに住んでたアパートの、隣のアパートの前に置いてあった洗濯機の、そのさらに上に置いてあった衣装ケースの中。時々猫が覗きに来るの」
「いやーそれはさすがに私でもわからんわ」
「わかれよ。何年友達やってんだよ」
「すまんな」
 大学時代に知り合ったまっちゃんとは、お互い音楽好きというところで意気投合して、二年生の時にメンバーを募って女四人でバンドを組み、奥田民生の歌詞の解釈で喧嘩して解散して、三日後に全員泥酔するまで飲んで再結成した。もっとも解散したとか再結成したとか思っていたのは私とまっちゃんだけで、ベースのきりちゃんもギターのえつこも、二人の個人的な揉め事だとしか思っていなかったらしいけれど。
「天気のいい日に日光浴させてもらってんのはいいんだけど、動いてる洗濯機の上に置かれてるから、ガンガン揺れてるんだよね。あれさ、酔わないのかな? 亀的にどんな気持ち?」
「私に亀の気持ちを代弁しろと?」
「できぬと申すか」
「ちょっと亀に転生するまで待ってくれる?」
「くるしゅうない」
 その日のレンタルスタジオは二十二時までなので、あと五分で全部片づけて、フロントとは名ばかりの、長机が置いてあるところでBPASSを読んでいる金髪のおにいさんに、鍵を返しにいかなければならない。繁華街の片隅にあるビルの地下、昔はビリヤード場だったらしい場所を改装して作ったスタジオは、防音用に強いてあるカーペットに煙草の臭いが染みついている。壁には有名な外国のバンドのポスターと、誰かのサインが飾られているけれど、どれも黄ばんで色あせていた。
「大学のときに住んでたアパートって、錦糸町の?」
 防音扉を開ける前にそう尋ねたら、まっちゃんはそうそう、と言って頷いた。
「あんたたちが何回も夜を明かしたあのアパートだよ」
「意味深な言い方すんな。飲んで寝て朝になっただけだから。てか、そんな洗濯機があったの気付かなかったな」
「自転車置き場の奥だったし、あんたがあそこに来るときって、だいたい酔ってたか、二日酔いだったからじゃね?」
「それはある」
「あの頃は授業とバイトと練習でいっぱいいっぱいだったのにさー、ほんとくだらないことで笑い転げて、楽しかったよねー……」
 そう言ったきり、水蒸気がふっと見えなくなるみたいに、まっちゃんは続きを口にしなかった。
 ガチャリ、と重い音を立てて、防音扉が開く。


 大学時代から続けてきたバンドは、今月末のライブを最後に解散する。卒業してから三年。これでもよく持った方だと思う。就職してから一年も経つと、まずは小さい出版社に就職したきりちゃんが、残業続きで練習に来られなくなった。営業だし接待もあるし、仕方ないよねと話していたら、そのうちアパレルに就職したえつこも来られない日が多くなった。こっちは全国にある店舗への研修出張が頻繁にあって、練習のある日に北海道にいたりするので、お土産買ってくるわーという会話をするのが定番になった。今日もやっぱりきりちゃんは残業、えつこは新商品の品出しだとかで、二人からの謝罪のスタンプがスマホに届いていた。私といえば中小企業の事務員にどうにか滑り込み、お局の機嫌を取りながら弥生会計と戦っている。給料は安いけど、残業が少ないことがありがたくて、練習にもわりと顔を出せていた。会社で嫌なことがあっても、スタジオでちょっとだけピッチの外れた、けれどそれがすごく味になっているまっちゃんの声を聴きながらドラムをぶっ叩いていると、お局の眉間の皺なんかどうでもよくなるのが気持ちよかった。
「あのさー、私さー、やっぱまっちゃんの声好きだわ」
 二人きりの練習が増えた頃に、私はそんなことを言ったことがある。
「ずっと歌っててよ。頼むから」
 懇願したら、まっちゃんはしょうがねぇな、と言って笑った。
 錦糸町のあのぼろいアパートで、二人して明けていく空を見ながら缶チューハイを呑んだ日も、まっちゃんは私の好きな声で歌ってくれた。
 いつかバンドでデビューしたい、という夢を抱き続けたまっちゃんは、大学卒業後、結局就職はせずにフリーターという立場に落ち着いた。朝はパン屋で働いて、昼間はコンビニ、夜は居酒屋で働くローテーションを組んでいる。そんなに働くなら就職した方がよかったんじゃね? と皆に突っ込まれていたけど、この方が夢を追ってる感じがするからと、わけのわからない言い訳をしていた。
 でも、今なら少しわかる気がする。
 明日の生活費を心配して忙しくしていた方が、きっと、余計なことを考えなくてすむ。目の前のことに一生懸命になることで、周りの雑音から耳を塞いでいたんだろう。それはとても身勝手で、甘えていて、まっちゃんらしかった。


 金髪のおにいさんにスタジオの鍵を渡して、狭い階段を上がって地上に出ると、ちょうど目の前の道路に黒のSUVが停まっていた。私とまっちゃんの姿を見つけると、運転席の窓が開いて、髭面の男が顔を出す。
「おや、お迎えですか? ラッブラブ~」
 冷やかすと、髭面がちょっとだけ照れたように笑う。強面のくせにシャイとか、なんだそのギャップマジふざけんなと、やや腹立たしい。
「仕事終わったの? 早くない?」
「たまたまね。近くだったから、ついで」
 人懐っこい熊みたいな男は、まっちゃんの婚約者だ。所詮幼馴染とかいうやつらしいけど、付き合い始めたのはここ半年くらいのことで、私もその存在を知らなかった。結婚したってバンドはできると熊は言ったそうだけど、まっちゃんは続けるとは言わなかった。仕事に忙殺されているきりちゃんとえつこの現状を見ても、限界だと思っていたのだろう。四人での話し合いは、あっさり結論が出た。

 日常の中に夢は潰える。
 それはありふれた悲劇だ。
 私たちだけが特別なわけじゃない。
 才能がなかったといえばそれまでで、努力が足りなかったといえばその通りで、一文無しになっても続けたいかと訊かれたら戸惑う。
 でも、あの頃の私たちが持ち寄っていた愛は確かに本物だった。
 少しずつ少しずつ、その愛を使う方向が違ってきただけだ。
 純真無垢なものを抱き続けることに、疲れてしまっただけだ。


 送って行こうか? と熊は言ってくれたけど、私は断って駅までを歩くことにした。
「ねえまっちゃん、その亀見に行く?」
 別れ際、そんなことを尋ねたら、まっちゃんはちょっと考えてから、「行かない」と答えた。
「だって面倒くさいじゃん。錦糸町に用事ないし」
「だよねー」
「ですよねー」
 二人の乗った車を見送り、私は駅までの道を歩きながら、まっちゃんの歌声を思い出していた。自分で歌ってみたけれど、やっぱりまっちゃんほどうまく歌えない。歩道をゆっくり歩いていたら、車道の赤いテールランプに次々と追い越された。
「……あー、置いて行かれた」
 アスファルトを滑らかに走る車は、何台も何台も私を抜き去って、信号の分岐でそれぞれの方向へ流れていく。
「置いて行かれたー」
 いくつものテールランプを見送って、星の見えない都会の空を仰いだ。
「置いて行かれたんだよぉー!」
 思い切り叫んだら、前を歩いていた知らないおばさんが迷惑そうにこちらを振り返った。いいじゃないですか。今夜くらいは叫んでも。
 もう戻れないんだから。
 わかってるんだから。


 行かない、と言ったまっちゃんが迷った二秒。
 それを思い出して、私はにやにやと笑った。
 笑ってから、ぼろぼろ涙が零れてきて、子どもみたいに泣きながら歩いた。
 二秒で充分だ。
 充分すぎるほど充分だ。
 迷ってくれたことが嬉しかった。


 あの錦糸町のアパートの、隣のアパート前にある洗濯機の上。
 見たこともないし、見に行くこともないけれど
 たぶん亀は、今日も衣装ケースの中で揺られている。

 きっと、揺られているんだ。


                                了

☆ feat.フクザワ Thank you for giving me inspiration.



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