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プロの生きる道
Mリーガー白鳥翔プロのツイートが話題になった。
多分この考え方には共感できない麻雀プロもプロじゃない方もいっぱいいると思うんだけど、6:4でこっちの方が得みたいな選択あるとして常に6の方じゃなくて6が出る時は6選びたいし、4が出る時は4選べるようになりたいんだよなぁ。
— 白鳥 翔 (@s_Shochan0827) March 19, 2020
これをずっと追い求めてプロ生活やってきたけどほんと頭おかしくなる!
どうやって?って言われてもそれは経験とか感覚とか、もしかしたら今の自分にない読みの部分で4が実は6かもしれないし。ずーっと挑戦よ。
— 白鳥 翔 (@s_Shochan0827) March 19, 2020
多分多数派の考え方ではないと思うからなかなか納得されない考え方だと思うけど、多分この考えは変わらないな
麻雀は選択と抽選の繰り返しによってより良い結果を目指すゲームだ。勝つためにやるべきことは、見栄えなんてどうでもよく、ただひたすらに得すると思う選択を追求し、試行回数を重ねることだけだ。
この前提に立ってみると、6:4の優劣というのは相当な大差であろう。4を選ぶことなんてできない。もちろん白鳥プロのツイートはそういった神がかり的選択をしたいという直接的なものではなく、そこに挑戦したいという気持ちの表れではないかと思う。
この気持ちは麻雀プロだからこそ芽生えたものであることは疑いようがないが、それではプロとアマチュアの差は何だろうか?マナーか?マネーか?
麻雀界におけるプロとアマチュアの間には、将棋、野球、サッカーなどのような明確な実力的ボーダーラインはほぼ存在しない。資格は存在するものの、他の競技のように人生を賭けて猛練習してプロになるようなものではない。
私が思うに、その差は「精神」ではないだろうか。
「麻雀とは、偶然を材料にして、一定の料理を作る競技である」とは故 阿佐田哲也氏の言葉であるが、これこそが麻雀プロの存在価値に関わる重要なことではないかと思う。
アマチュアの麻雀とは
「過程さえ完璧にできていれば結果はどうでもいい」
こう考える人はとても多いと思う。私が出会ってきた強者はみな口をそろえてこう言う。
これは結果を疎かにしているわけではなく、結果そのものは運によって左右され、私たちができることは過程で最善を尽くすことしかないとわかっているゆえの発言だ。
天鳳で好成績を目指す人だったり、雀荘でメンバーとして働いている人が目指すものは、ただひたすら目の前の勝利であることは言うまでもないだろう。アマチュアの麻雀というより、凌ぎの麻雀といったほうが正しいかもしれない。
ただ、はっきり言ってこういう麻雀を観戦するというのは、ある程度麻雀を打ち込んで戦術や理論を学んだ人でないと十分に楽しめないだろう。勝つには勝つが、バラエティとしてはほぼ無価値だ。
プロの麻雀とは
プロの麻雀でも成績はもちろん大事だが、それと同じくらい観客やアマチュアに楽しんでもらうことも大事だ。
私は常にこういった考えを根底に持ちながらプロの対局を観ている。要はバラエティ番組を観ているようなそんな気分だ。
そうした中で、私が彼らの立場だったらどういった麻雀を打つだろうか?と考えたことがある。
もちろん天地がひっくり返っても私がプロになれることはないし、宇宙が崩壊してもMリーガーに選ばれないことは承知している。
しかし一個人としてそういった空想をしてみると、やはり私も故 小島武夫プロや森山茂和プロ、あるいは萩原聖人プロのような麻雀を目指すことになるかもしれない(マナーは真似しない)。
なぜなら、麻雀は真理追求すればするほどスタイルというものが消えて興行向けではなくなると私は思うからだ。
その真理追及と理想の分岐が顕著にあらわれるのが、以下のような手牌だ。
フォロー牌のないとても狭い一向聴。
東南戦 東1局北家、点棒フラットの9巡目と設定しよう。
鳴いてトイトイ中の出和了5200点・ツモれば満貫の手なので、単純な損得なら鳴く以外考えられないだろう。ちょっと粘り気のある人なら1枚目はスルーするかもしれない。
しかし、観客付きのプロ対局ならばギリギリまで鳴かないというのも手だ。
四暗刻の和了にはただ32000点+順位点の加点がなされるだけでなく、人々の記憶に強く印象付けられ、動画として宣伝される可能性がある。その対局の先にある見えにくいリターンが意外に大きい。ポーカーでいうインプライドオッズみたいなものだ。ちょっと違うかもしれない。
萩原聖人の伝説の三色という有名な動画がその最たる例だ。
舞台は2003年のモンド21杯の決勝第3戦。
簡単にダイジェストをすると、ハギーはオーラス親番で24100点持ちの2着目でトップまで19800点。総合点でも32ポイントの差があり、是が非でも連荘したい局面だ。
そんな状況で迎えた配牌がこちら。
まるで生気を感じられない、パラパラチャーハンと見間違えるような配牌だ。私だったら摸打は一応続けるものの、晩ご飯はチャーハンかな、などと考えていること必至だ。
というか、タイトル『伝説の三色』を聞いてからこの配牌を見ても、この人じゃないのかな?とか、あー次の局か、となるだろう。
幸いにもツモは噛み合い、和了が見える広いシャンテンまで形が整う。といってももう11巡目だ。
8pを切っているとはいえ、中ぶくれ3mと6pのくっつきシャンテンから1pを残して打6p。どうしても和了らなければならないこの局面では驚愕の一手だ。
ここから2sを引き入れて打3mとし、さらに狭いシャンテンに構える。
幸運にも4sを引いて14p待ちテンパイ。高目4pなら三色だ。
これは当然のリーチ。あの配牌がここまでくると、デジタル派閥の私でもなんだか和了するような気がしてくる。
そして一発ツモ。裏が乗って8000オール。一撃必殺となった。
数理的に考えれば、手順には怪しいところがいくつかある。
しかしこれは紛れもなく、彼が偶然を材料にしてひとつの料理を完成させた瞬間であると言えよう。役満ですらないのに、見た人々の目には長く焼き付けられていることは間違いない。かなり昔の対局だが、私も確かに覚えている。
私たちの記憶に残っているように、おそらくこの和了は萩原プロ自身の記憶にも深く刻まれていることだろう。
おわりに
以上のように、アマチュアの麻雀とプロの麻雀はそもそものコンセプトが異なる。アマチュアにはプロの麻雀を打つことは難しいし、逆も然りだ。
私も含め、これを読んでいる方のほとんどは、先に挙げた「凌ぎの麻雀」のプレイヤーであると思う。その麻雀の内容は、プライドやマネーを賭けたりして、命がけに近いほど勝利にこだわるものであり、そこに遊び心を入れたり作品として牌譜を残そうという余地はまったくない。
プロの打つ麻雀は、そんな私たちが普段歩むことのない分岐の先を見せてくれる存在だと考えてみてはいかがだろうか?
その試合をただ観戦して楽しむのも良し、仲間内で誰々が勝つと予想し合うのも良し、とにかく楽しもうとする気持ちが大切だ。
なぜならプロは、私たちを楽しませるために存在しているのだから。
このノートがあなたにとって有意義なものであったらとても幸いです。