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あなたの人生の物語 ― 知識は増えるの?


 「いまはね、去年の国語の教科書をたべてるから、ことばみたいな気持ちがする。

 ことばみたいな気持ち。数字の気持ち。二酸化炭素の気持ち。宇宙の気持ち。

 ふぅん。

 じゃあ私は、かなでちゃん、って紙に書いてたべてみる。」 (大前粟生 「かなでちゃん」)


大前さんの本は読んだことはありません。でも、「かなでちゃん」は面白そうっ。

もし、わたしがヤギだったら、かなでちゃんって書かれた紙をぱくっと食べる。

食べてむしゃむしゃとしているうちに、ひょっとしたら、こんなふうにあなたをじぶんの身に沁みて理解できるのかもしれない。

いや、ひょっとしたら、これは切ない話かもしれない。

相手を傷つけたくないという思いがどんどん重なって、壊れてしまう・・というような。

そんな時、相談する相手がいればいいけど、そうはなかなか生きません。



1.知識は増えるの?


わたしは、読書好き。

読めば、知識を増やし違う観点を学べるとずっと思って来た。

ああ、、、でも、身に付かず、単に娯楽に終わってしまったような気がする。

フロイトもユングもアドラーもいくら読んでも、我がこととして身に付きませんでした。

さいきん、そんなじぶんに、いらっとする。

いっそのこと、彼らが書いた本をこうやって食べたら、なんとかなるかもしれないとも思う。


もちろん、科学や技術といった自然や物質を対象とした時、知識は増えます。

たとえば、豆を選び、焙煎から始めるんだったら、コーヒーに対するいろんな知識は有用です。

知ってて良かった、と実感できるでしょう。

知識がなければ鉄も船も新幹線も作れない。スターリンクなんていつまでも宇宙を飛べない。

モノ相手なら、知識は増える。

でも、人間のこころに対しては、増えない。


たとえば、お釈迦さんが言った言葉を読んでああ、、そうだって納得しても、わたしはつい怒ってしまう。

じぶんの感情の在り方によって、彼は一瞬で無限の彼方に吹き飛んじゃう。

豆の焙煎方法を知ってしまったらそれ以外が出来なくなるのとは、大違いです。

使えない言葉は、パワーを持つ”知”とは言えないです。


ああ、なるほどと納得しても、じぶんのこころをそれに合うように修正できません。

わたしのこころは、モノじゃないということです。

資本主義の等価交換に慣れたわたしですが、こころは相手に合わせてやり取りできない。

だから、読んでも読まなくてもほとんど変わらなかったのです。

自己啓発本が娯楽に終わってしまう理由はそこにあると思います。



2.あなたの人生の物語


SFオタクでいつも申し訳ないのですが、テッド・チャンの『あなたの人生の物語』が捨てれません。

短編でのSF作家としてはかなり上位に来る方でしょう。(寡作ですが)

家に1000冊はあったかと思いますが、関西に移住するに際して、30冊残しました。

大半を捨ててきたのに彼を連れてきた。

とくに、そこに収められている「バビロンの塔」にわたしは魂吸い取られたのです。

父と子が、そこを登って行く。

旧約聖書における神と人との対立を象徴するモチーフがバビロンの塔。

テッドは、世界の構造を探求しようとする人々の営みの象徴として読み替えています。

SFとしての展開という感じではないです。

読むと、深いイメージがわたしのこころに生きます。

わたしたちのこころは、物語の形式でしか伝わらないものかもしれません。


あなたは、あなたの人生の物語を生きてきました。

友だちを作ること、勉強ができること、お金がおもな関心事だったと思う。

いろんなことがあったと思います。

でも、たとえば、痛みを感じているのに自分が無頓着に人を傷つけている。

衝突することもしないことも痛みに繋がる。。

誰もが持っている生き辛さを、それでも手放さずに、他の大切な気持ちと同じようにそぉっと抱きしめながら生きていく・・・。

あなたは、そんなひとなのかなぁとわたしは、なぜか思う。


わたしはわたしの生き辛さを解決したくて、心理学や哲学や科学を知りたがって来たんだけど、そういう男はちっとも変わらなかった。

それをわたしの生に取り込めなかった。

わたしたち男は、狙ったマンモスを倒し、自慢げに妻と子が待つ家に持ち帰る役割だったでしょう。

倒すマンモスにも妻や子がいるかもしれないなんて情緒的な関係を考えてしまったら、倒せないのです。

家を作るために道具も作り、簡単な設計もした。力があるから柱も屋根も組み上げました。

たいはんの男の遺伝子には、ターゲットを攻略するという大文字が書かれていると思う。


あなたが、わたしの書く記事を「観念的だ」、「硬い」と思っているのをわたしは(勝手に)感じています。

でも、ひどく苦しんだ者は別として、ふつうの男はこんなふうに生を語るしかないのです。

特に、知識に偏りたがるのには、ワケがあるのです。

関係という大文字が書かれていないのです。

わたしだって、今日告白しているように、物語という関係の中でしか、こころは知り得ないと分かっている。

分かっているからといって、明日から書く記事が、「対象(ターゲット)」から「物語(関係)」へと変わるわけではないのです。

くどくどと言い訳しているのは、もう、わたしはヤギさんになるしかないのか、、と痛恨に思ったからです。

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