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天に見捨てられる時があるんだそうな


1.いつも硝子は割れようと思っている  筒井祥文


そんなはず無い。

いや、ひょっとしてガラスはおバカな人間をそばに引き寄せてはわざと割れて行く。

わたしも何枚か派手に割っている。どのシーンも呼ばれた様にわたしが壊した。

ガラスは向こう側がよく見えた。


怒りにも、いろいろある。

乱暴な運転するクルマが近づけば、わたしは怒る。

ピュアな怒りガラスとなったわたしは爆発する。

激しいじぶんにショックを受け、後ほどピクピクしながら反省する。

じぶんがすごく恥ずかしい。でも、忘れられる。


傲慢な怒りの場合、かのじょに済まないことをしたという悔いがカケラとなってずーっと刺さる。

わたしのことあんまり書かないでねとかのじょが言った。

いいじゃなか!とネタに困ったわたしが怒った。

傲慢ガラスの場合、じぶんが正義だと思いたい。

モヤモヤしながら遠くに行くまで本人は認識できないしもう戻せない。

実は、傲慢さには、厄介な変種がある。



2.嘘ばかり書いた手帳を持ち歩く 竹井紫乙


もうずいぶん前のこと。

歌人の天野慶さんは早稲田大学の講義に呼ばれてこんな話をしました。

彼女が歌を見てもらっていたのが高橋一誌だった。

その彼が、「短歌をやめたい」といった人にたいしてこうおっしゃったという。


「違うよ。短歌をやめるなんて、そんな偉そうなことをいっちゃいけないよ。

短歌をやめるんじゃなくて、短歌に捨てられるんだ。

短歌というものの方が、あなたに見切りをつけて去ってゆくんだ」

そのやり取りを横で聞いていた天野さんは凄いなぁって思った。


「千何百年以上生きている歌という力のあるものが、

ふっと誰かに入って短歌のために奉仕させ、作れなくなれば去ってゆく。。

その時イメージしたのが、村上春樹さんの『羊をめぐる冒』に出てくる羊憑でした」


人間相手ではない場合、傲慢さはゴメンじゃ済まされない。

天の機織りたちは傲慢な者の服はもう織ってはくれず、見捨てられてしまうほどの大罪なのだ。

そりゃもう断然オソロシイことが起こりそうでしょ?


師匠にこう言われたその人は、何言ってんだか偉そうに、、みたいな気になりふんって怒ったと思う。

問題は、そんな神存在うんぬんではないのです。

畏れ、敬うという人間の基本機能を失った者に歌う資格なぞない、と師匠は言っている。

オレのオレの、オレがオレがとなんでも制御できるという傲慢さを突いた。

でも、言われた当人には分からなかったでしょう。なぜか?


師匠に「短歌をやめたい」といったというが、ほんとはどうなんだろう?

正直に自責で原因を認めたんだろうか??

他者比較ばかりじゃなかったのか?愛はあるんか?

意外なことに、他者をないがしろにする傲慢ガラスは自分も型にはめ軽く扱う。

傲慢さとは、天と他者と自分にウソを付くということだ。

酷な言い方だけど、その人の手帳にはずっと嘘ばかり書かれていたのかもしれない。



3.ほんとうのことだけ書くと着く手紙  ながたまみ


今でもときどき聞きたくなる15歳のときのHayley Westenraです。(たぶん、16にはなってない)

https://www.youtube.com/watch?v=Vr6ajtA5Otg

ヘイリー・ウェステンラはあまりのうまさに見いだされ、この野外ステージに招かれた。

沈む陽が夏の熱気と香りを従えて陰ってゆく時間帯か。

すこし涼しくなったステージに紹介されウェステンラが現れる。

にこにこ、にこにこして、歌うことが嬉しくてしかたない。なんて素敵な声だ。

歌ったのは、アンドリュー・ロイド・ウェバーの曲で、鎮魂歌『Pie Jesu』。

ピエ・イエス(イエズ)とは、「慈悲深いイエス」という意味。


15歳。神に愛でられしこの人はもう年齢不詳の美をまとってる。

その素直さ、嬉しさが際立つ。(写真をUpしました)

確かに、天上の調べがこの地上にまで降りてる。

天の機織りたちは彼女に羽衣を与え、彼女は夏の舞台にふわっと浮かんだ。


その後、才能と美に恵まれたこの人はその純粋な喜びを失ったように思います。

日本の歌も大好きなようで多くカバーしていますが、とてもうまいけれど何かが欠けている。

わたしは、彼女にもう喜びを感じられない。

いや、うまく歌おうとしている。

わたしは、作為を見てイライラする。わたしだけ?


単に綺麗な声で歌がうまいだけの美人では、人は振るえない。

3拍子揃っても振るえない。

上手い文章は、振るえる文章とはならない。

個性を出そうとして書くと、個性が無い文章となる。

1拍子しか手持ちの無い者はいったいどうしたらいいんだろう?

いったいなぜ歌うんだっけ?



4.こんな手をしてると猫が見せに来る  筒井祥文


ニャンコがポニョポニョを見せに来るという。おお、、なんて素敵だ!

ニャンコは、わたしの乙女心をプロとしてくすぐりに来たわけではない。

ただ、純に見て欲しかった。そのこころが感動させる。


歌が抜きん出てうまい人の場合、プロに成るのが当然視される。

周りも薦め、本人もすっかりその気になる。

イイネ、きみ、本ださないか!なんて言われたら、わたしも断然シッポふりふり後を付いてゆきますほろほろ。

わたしは人気や売れることに目が行く。書くこと自体への愛はどこかに。

それは、自分の希望だし、みんなの期待なんだもの逆らいようが無い。


でも、あの15歳のステージには、にんげんの捧げる最上の喜びがあった。

彼女は与えられたそのものの精いっぱいを差し出した。

なぜ、プロなんかに成らねばならないんだろう?

愛好家(アマチュア)ではなぜいけないんだ?


ほんとうのことを書く時だけ、着く手紙があるという。

ああ、あなたが素に書く文章はまさにそうなのです。

健気なあなたのこころが、わたしに届く。

あなたのデコボコ、拙さ、戸惑い、苛立ち・・・それらがわたしを喜ばす。

フォロワーの数が片手で足りようが、拙い文であろうが、実はまったく関係が無い。

わたしは、飾りの無い、あなたの真心、ニャンコの手を受け取ってしまう。


ウェステンラはがんばらねばならない!と自分にウソを付き、強要したのかもしれない。

奇跡の15歳は、あの夏にピークを迎えてしまったように思えるのです。

言い過ぎかもしれません。でも、彼女に魂の躍動をもう感じない。

天に、ほんとうに自分が願うことを言わなかったら、天は機織りを辞める。

通知も無いので当人はもっとがんばろうとしてしまう。

苦しい。もう笑顔はだから、無い。

人はこれを傲慢とは呼びません。努力という。

でも、本人から純粋な歓喜を奪ったのはいったい誰なんでしょう?

猫はじぶんの手をほらと見せに来たのに。



5.傾いたままで結構走れます  久保田紺


うまく書けない。こんなんでいいのだろうか。。

わたしは、始終、苦しみます。今も。

捧げずに、結果だけ得ようとしている。

苦しむとき、わたしにもう愛はない。

それって、自分を裏切ることではないのか?

わたしは何度じぶんを裏切っては血を流して来たんだろう。おバカ過ぎる。。。

いいえ、お日様の陽ような愛に照らされないとわたしはすぐ萎れてしまうのです。

でも、その陽を遠ざけるのはいつもわたしです。

わたしは苦しい、わたしは悩んでいるというのは、おのれの力だけで進もうとしているということかもしれない。

天はそれを、傲慢だねという。


じっさい、技巧も見栄も捨てて捧げ書いたとき、わたしの胸は喜びで満たされた。(滅多にないですが)

それは人類認める大作家になったのでもなく、1000年後の後輩たちが参照するような立派な文章でも無かった。

でも、わたしという存在が心底、喜んだ。これ以上の喜びが、この地上でなぜ必要なんだろう???


そもそも13年以上も飽きもせずに書かせた何かがわたしにも来ていたのです。

わたしは貧しい力しかなかったけれど、それでも書き続ける力を授けてくれた存在がたしかにあったと思う。

だから、わたしは、この入れ物せいいっぱいに喜びで満たしたい。

ああ、、どこか欠けを探して完全にしようとしてもひとは満たされないのです。3拍子、5拍子揃っても。


欠け偏ったこのわたし自身が唯一のわたしです。

どんなことがあっても揺るがしてはならない。

じぶんに素であることがわたしを喜ばしてきたのですから。

15歳の時の彼女は、ゆっくりゆっくりと天に向かって歌った。

ええ、、わたしたちは、喜ぶためにここに来たのです。

喜びから目を逸らした時、ガラスは自ら割れてしまう。

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