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それでは仕事とまるで変わらない
「連休」っていう言葉、みんな好きだと思います。
いかがお過ごしでしょうか?
すみません、働いてる方たちには余計な話かもほろほろ。
1.しあわせな時
グルリ回想してみと、しあわせだったという連休の思い出がわたしにまるで無い。
渋滞くぐって家族を田舎の実家に連れて行って疲れたとか、
何にもせずに無為に過ごしてしまった後悔とかいう記憶しか思い浮かばない。
毎回、すんごい期待を抱いて突入するんですよ、ええ。
もう人生巻き戻せるんじゃないかぐらいの勢いで。
なのに、しあわせ記憶がぜんぜんない。
しあわせって、「満たされた感覚」だと思うんですね。
だとすると、この今を感じてる状態です。
それが、ダメだとか惨めだとか言う解釈が落ちて、ただ味わっているということでしょう。
きっと、わたしの連休は、「何かしないといけない」病に呪われてきた。
お前のしあわせ感を3つ挙げろと言われたら、こんなんでございます。
① ヘロヘロな一日が終わり、布団に潜り込む
全戦全敗みたいな、いや、とにかく戦い終わって日は暮れたのです。
やっとこれで寝れるんだっーという感覚に包まれる。
寒い冬は極上です。
潜り込んで、寒い布団をじぶんの体温でヌクヌクさせて行く。
読みたい本を手に握って読んでゆく。だんだんと布団が暖まって行く。
眠気がふわふわとやって来る・・。ああ、、嬉しいっとそのまま眠りに落ちて行く・・。
② ただ「あなた」と居る
最近で言えば、かのじょとただ歩いてる時となります。
なにが嬉しいのか、ちっとも分からないのでございます。
背のうんと小さなあなたが横にいて、ほら、女性ですからね。いろんなことを言う。
わたしも、つまらないことを言う。ふたりで、自宅目指してひたすら歩く。
ふだん、一緒に何かするってないわたしたちなのです。
が、ふたりでたいしたこと無いことを一緒にしている。タラタラと歩いてること自体が嬉しい。
「あなた」とは、じぶんの子どもたちとでも良かったはずなのです。
でも、いつも、子とはそうは在れませんでした。
今は、管理外の孫との方がよっぽどほろほろと居ることができる。
そういう「あなた」という他者とただいる時、嬉しい。
③ もちろん、おいしいの
”おいしい”という言葉ですが、この口が慣れ親しんでいる味となります。
それをお腹が減った状態で、おもいっきり食べている。満ちます。
カレーでも、ハンバーグでも、芋の煮っころがしでもなんでも良い。
というか、わたし、高級なモノ食べた記憶がございません。
松坂の牛も、ガチョウの肝臓も、チョウザメの卵も、秋に生えるマツタケ様も噂でしか存じあげません。
腹いっぱいに満たされると、ああ、、しあわせだーって毎回ワンパターンで思うじぶんに笑います。
へへ。。これって、あまりに動物じゃんって。
この口が慣れ親しんで来たものじゃないと、しあわせ感は来てくれないようです。
食べて、寝て、仲間と居る・・・。
これ以外にもあるんだけど、たった3つだとすると筆頭こうなる。
じぶんは単純だなぁ・・。ちょっと恥ずかしい気もします。
もっとカッコイイこと言いたいんだけど、こうなってしまうのでございますほろほろ。
「連休」は期待が大きすぎて、構えちゃうんでしょう。
さあこれから高級和牛食べに行くぞ、がっつり元を取らないと損だ、ゼッタイうまいはずだというプレッシャーというか。
期待が大きいと、そのままを味わえない。頭が分析、評価ばかりとなる。
有意義なのか?楽しいか?
豪勢に、晴れ晴れと、立派に、充実した「連休」じゃないと、「連休」じゃない。
2.あなたが危ない?
オリバー・バークマンという御方があられまして、余暇を有意義に過ごそうとすると、余暇が義務みたいになってくるというのです。
それでは仕事とまるで変わらないじゃんって、その御方、のたまう。
いかがでしょ?わたし、その通りでございました。
実は、余暇の問題じゃないのです。
仕事か余暇かに関わらず、ちゃんと一人前に生きなくっちゃとかいうプレッシャーがある。かもしれない。
いつも、頭の右上に、校長先生や親や教師や上司や姑がいる、みたいな。
「ちゃんとしなさい! ダメ!そんなんじゃ!」。
「がんばるのです。やるんなら有意義でないといけない。立派な一人前にならないといけない」。
この弱っちいわたしがサバイバルできるようにと叱咤激励してくる。
でも、それは世間体なんだなと、わたし思う。そんな押し付け、ぜんぜん役に立たない。
まずいことに、いつしか、じぶんは大人となり、同じことを後輩に言っている。
まじめに一生懸命に働かないといけないと同じように、まじめに一生懸命に余暇しないといけないわけです。
勝つんだ!負けるな!みたいな。そりゃ、かなり、疲れますよ。
連休の話ではないということがヤバイのです。
今を感じて生きているかどうか。それがこの「連休」の扱いでクリアに分かるでしょう。
いや、実は、あなたも定年後にたいへんなことになる、かも。
3.わたしが恐れたこと
以前、停年退職したサラリーマンの話を読んだことがあったのです。
あまりに、ステレオタイプすぎ情けない。。わたしの身に迫って来ました。
その人、最初は手帳にイベントを盛りだくさん書いてたんです。
付き合いは会社にしかないから、会社辞めても、部下とお酒、同期と旅行とか。
でも、みんなそんなには付き合ってくれないのです。最初だけでした。
と、1、2か月もすると、手帳の予定欄がスカスカになった。
家に始終居て、「おい、メシ!」とか今まで通り言ってくるヤツなんか、奥さんもぜんぜん可愛くないのです。
男は、家でどんどん疎まれて行きました。
「オレは家族の為に汗水たらして頑張ってきたのに」という無念感が男に募って行く。
近所にも心から話せる友人を作って来なかった。
一緒に旅行に行かないか?と誘っても、妹や弟は始終いばってた兄に断然拒否。
レールに乗って走ってただけです。
誰とも時を同じくしてこなかった帰結でしかない。
「オレは家族の為に汗水たらして頑張ってきたのに」を大義名分に。。
本人は途方に暮れているんだけど、悲劇じゃなくて、ぜんぜん面白く無い喜劇です。
ああ、、こんな人間にはなりたくない!ってわたし、思った。
会社では、50歳になると停年に向けた研修というのがあった。
グループを作りそこで、定年後、あなたは何をしたいのかを2日間も考えさせられた。(小さな親切、大きなお世話を組織がした)
カメラが好きだからとか、ラジコン好きだからそれに没頭したいとみんな言うんです。
ワインを楽しみたい、妻と旅行するんだ、とかが大半でした。
わたしは、書くのが好きだから、誰かの助けに少しなれればいいなって思ってた。
自分の居場所が無くて辛い人っていっぱい居るだろうからネットで書くんだと。
みんなで自分の行く末を発表しあったのですが、わたしだけ異色でした。
わたしの希望を聞いて、みんなポカンとした。
みんな、楽しむことを求めていた。
ようしっ!これからは(頑張って)楽しむぞーって。
停年=人生を楽しむ、という構図だったでしょう。
連休=人生を楽しむ、という構図とよく似ている。
イベントの有り無しに関わらず、ほら、なんというか生き続けてるわけですから。
別に、楽しむ為に生があるわけじゃない。
わたしたちは、生き物だから、感じる為に生きている。
あなたが主役なんかじゃない。生かされているだけでしょうし。
4.一周巡って
立派な夫も、立派なサラリ-マンも誰ももう期待しない時がセカンドライフということでしょう。
もうお前は兵士も務まらないと、軍隊をようやく除隊となった。
けど、軍隊生活長すぎ、他のモードを知らない。
そのモードとは、ただ在る。
目的無く在るということでしょう。
とうぜん、期待なんて持ってたら、生は味わえない。
しあわせには在れないわけです。
いや、現在を切り売りして、未来のために投資して来たのです。
現役の時は、仕事のスキルもあげないと”いけない”という要請も実際ありましたし。
頑張れば、きっとしあわせになれるって思いこまされていた。
でも、しあわせは「今」に感じるものですから、これじゃいつまでも満たされません。
で、その言い訳が「オレは家族の為に汗水たらして頑張ってきたのに」となる。
さぁ、バリバリこれから楽しむぞ!っていう「期待」って無理があります。
強迫観念が去らないと、また同じように「楽しまないといけない」みたいに成る。
「やるべきことをやる」からの卒業ということなのですが、
もうずっと軍隊でしたから、やりたいことなんて考えたことなかったのです。
仕事の苦痛を忘れたくて娯楽に逃げてたのだとすると、「やりたいこと」なんて実は分からないのでございます。
研修でみんなは、好きなこと=やりたいこと、だった。
わたし、小さな頃から書くことは好きで苦も無く書けました。(うまい下手は別として)
わたし、「やるべきことをやる」から「やれることをやる」に切り替えた。
わたしがリアルにやれることで、他者との繋がり方、じぶんを感じることを仕切り直そうとした。
うまく出来ているかはさて置いて、そこはハッキリ意識しました。
こうして無職になってみて、自由な時間ができたところで、それが生き生きとした時間でなければ意味がないんですね。
1万年模型飛行機飛ばし続けたって、10万年旅行しまくったって、”楽しい”という時間つぶしをしている。
いや、、そこではないのです。
あなたとの何気ない関り、一緒に同時代を生きている、同じ空気を吸っているという感覚・・。
とても、大事だなぁって思うんです。
一緒にいても退屈せずに、その何も目的がない会話や時間に満たされるということ・・。
それは、じぶんが小さい時、自然と出来ていたことです。
ひとは、一周巡って、また起点に戻るのでしょう。
考えるから、ただ感じるという時空にだんだんと身を移している所でございますほろほろ。
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