他人の評価より自分が満足するものを、と言うのですが(2)
川柳を調べていたら、「他人の評価より自分が満足する句を」作ってねとある人が言ってた。
そうだよなぁ・・とわたしは反省した。
他者と比べ、得意になる為にしてるわけじゃないんだし。
でも、なにかがすっきりしなかった。続きです。
1.関電をやめて大阪ガスにした 江島谷勝弘
関西に越して来て、電気の契約、ガスの契約をどことするかというと、自然とこの両社になった。
関東に住んでた者にはピンときませんでしたが、どちらもビックネームだった。
この句、もう嫌だ!辞めてやるぅー!と勢いよく飛び出したはずだったのです。
わたしも29歳のとき、飛び出し、辞めてすっきりした。当座は。
でも、句の作者もまた大企業に転職してしまった自分を残念に思ったでしょう。
けっきょく、オレって安全第1の同じような道しか歩まないサラリーマンじゃん・・。
転職しても、抱えているやり切れなさが相変わらず手元にへばりついたまま、、というような感覚だったでしょう。
たしかに、より満足できるであろうと関電をやめて大阪ガスにしたのです。
でも、自分が満足するものを、と言うのですが、実はそれは言うほど簡単なことじゃないのです。
”満足”なる層が、自分の内に幾重にも重なっている。どれがほんと??みたいな。
いったいどれが自分がほんとに願う満足だったのかが、本人もずっと分からないままってことだってある。
2.安いけど八本あったタコの足 足立茂
SNSで発信している人が、同じく発信している女性の言葉を紹介してました。
逆立ちしたって書けないような素晴らしい文章を書くその女性、事も無げにこう言いのけたそうです。
https://note.com/brave_minnow423/n/n74f6800e615a
「私は、ここで書いている人たちを、(自分を含めて)凄いだなんて思ったことは一度もない。
だって、みんなしょせん文章でお金を稼ぐことができない人たちなんだから。
でも、それでも私は私の書く文章がいちばん好きなの。あなたもきっと本当はそうなんじゃない?」
冒頭の川柳の人も、「他人の評価より自分が満足する句を」と要請した。供に指している方角は、”アマチュア(愛好家)”ということです。
創造性という憧れを持つに留まる者は、アマ(愛好する)を貫徹せよと言っている。
それ以上を望まず、自己を表現したいという願いに徹しなさい、それでいいのですと。
でも、わたしだって、文章を書くという”創造性”を発揮する夢のような職に就き、お金をがっつり稼げる人に成りたい。
作家。。ああ、、なんて素晴らしいんだろうという”憧れ”がたいはんの人にもあると思う。
しかも、”自由”に個人が発信できる時代が来て、パンドラ箱も全開した。
でも、抜きんでないと買ってもらえない。
表現能力、無から有を生み出す想像力が手元に無いと職業にはできないわけです。
で、好きか嫌いかという愛好家の風景がそこに重なる。(愛好家の訳がアマチュア)
わたしは、二兎を追い、混乱して行く。
自己を表現したいという願いと、抜きんでて他者評価を得たいという欲とがごちゃごちゃにされて行くのです。
”創造性”というのは、自分の文章がすごく好きだとか、人気とかページビューとかとは関係ないのは明らかでしょう。
分かり易い文章だとか、親しみのある人柄だとかも関係ない。
お友達何人いようが関係ありません。
わたしは、創造という海の海岸で日々を過ごしているかのようです。
そこは、褒めて欲しい、分かって欲しいという他者評価、他者認知という波が打ち寄せます。
わたしは、生み出す海には成れないけれど、そばの風景の中で安心したいでしょう。
わたしも、ずいぶん長いこと、この心地良い海岸で変わった形のものや、きらきら虹色に輝く貝殻を探して来た。
ほら、こんなに綺麗な貝があったよと、母に見せる子どもの姿が浮かぶ。
SNSも十数年やってきました。美しい貝殻自体を作りだせたわけではなかったのです。
みんなは、憧れはすれど届かぬ創造性というレベルにやがて諦めて行きました。
そうだそうだ、そもそも書くのが嬉しくて書くのだという起点に戻って行く。
「好き」と言う言葉に慰めを見出したい。そうやって、アマという立場を受け入れて行きました。
あるいは、関心が他に移ってしまったと言う人もいた。
そうは言うけれど、たぶん、失意の内に撤退して行ったでしょう。
いずれにしろ、自分の足が8本しかなかったことを了解して行きました。
今日もわたしは打ち寄せる波を眺めている。
でも、わたしは、何かが違うとも思っている。
プロかアマか、じぶんが書いたものが好きかどうかという観点は、何かを外しているのかもしれません。
そういった視点では依然としてグルグル回りするばかりで、関電をやめて大阪ガスに入り直すだけになるような気がする。
じぶんの足が8本だろうが、16本だろうがに関わりないことってあるんじゃないのか?
3.正装をしても大阪弁である 谷口義
NHKが歌人の俵万知さんを追ったことがあって、やんわりしたお顔に騙されそうになるんだけど、かなり真剣にうんうん唸ってた。
短歌ですからね、わずか31文字。
それを何度も反芻して、ああだ、こうだと何日も直し続けました。
たった31文字。生み出す姿が真剣そのもの。真剣勝負だった。
おお、、これがプロの気迫なのか。
いや、彼女はしたくとも、妥協できないのです。
この世界の間口に合わせられない自身の不器用さを、わたしは彼女に感じた。
苦しい熱にうなされ続けているのかもしれない。
生の苦しみを、「生み出す」という行為で代替しているかのようでした。
どうしても生み出したいという熱を持つ者だけが、プロと言われる人になるのだとわたしは見ていて思った。
太宰治でもヘミングウェイでも、自殺して行った。
多くの作家がそうして身を閉じたのは、やはり、この地上の人間のお約束事に整合できなかったからだと思う。
かれらは不器用だった。
勉強し、やがてまじめに働き、お嫁さんをもらい、子を育て、人には親切にし、年老いたら静かに去るんだよ。
それを「はい」と言える者と、そうはどうしても言えない者とに分かれるでしょう。
わたしのように、ちっとも読まれないブログを書いては悩み、会社では上司に不満を抱き、家族と揉め、税金の高さにあえぐ。
いいえ、わたしは文句を言い、あえぎ、悩めるのです。
同じようなサラリーマンをまたしてるなぁと気が付いても働き続けられる。
そんなふうにして、世間に組み込まれてしまうのを良しと出来る「才能」があると言ってもいい。
でも、ある種の人たちは、そんな世間の常識に染まりたくとも染まれない偏りがある。
根っからの大阪人は、ちゃんと正装してもやっぱり大阪弁なのです。
東京標準語に合わせようといくら努めても、叶いません。
仕方無いので、大阪人は、「わてらが一番や」といって東京をこき下ろすことが出来る。
でも、創造の世界では、他者をこき下ろしても何も変わらず、ますます追い詰められる。
どうしても、どこかの間口が世界と合わなくて、生きていることが辛い。
ハンチバックの作家ではないけれど、そこの矛盾を解消したくて「創造」に進む。進むしかない、みたいな。。
彼らの姿は、自分の書いたものが好きとか、満足だとはほど遠いのです。
きっと、自分の足が7本しか無いことに、世間に染まれない自身に苦しんでいる。
わずかの1本の、たった1本の欠落がいかに苦しいかは、8本有る者には理解できないでしょう。
4.テレビ消す ふいに激しい孤独感 矢倉五月
抜きんでた才能を持つ者たちは、自分の書いたものが好きではないかもしれない。
他者に抜きんでても、おそらく何も解決されない。
抜きんでた脳を持つ代償を、世間に繋がれないという面で払わされ続ける。
そこにあるのは、孤独ということかもしれません。
だから、止むにやまれず雄たけびを上げる。真剣にあげる。
その姿にみんなははっとする。
けっして、うまく書けてはいないかもしれない。でも、底に流れるその真剣さをみんなは感知してしまう。
程度はうんと違うけど、誰もが内に”ぎこちなさ”があるから。
その代償を支払う一途さを持つ者が、プロと呼ばれるのかもしれません。
それは平凡に暮らす能力をはく奪された結果のように思えるのです。
かれらは通奏低音としてじぶんの底に流れ続ける孤独感に耐え、その耐える力をわたしたちは感じる。
それが、”真剣さ”の意味合いだと思う。
だから、その才は羨むようなものじゃないのです。
かれらはわたしたち人間属の人身御供のようです。その孤独は、きっとわたしには耐えれません。
程度は違えど平均からの偏りはみなそれぞれが背負う切なさだけど、
世界の隅っこで、ささいなことを愛するアマであれるとは、実はとても幸運なことかもしれない。
いや、プロだアマだとという以前に、お前はじぶんの生に真剣なのかと問うて来る。
どどどって襲って来る孤独感にへこたれずに、じぶんの生み出すものに真剣なのかという声がしてしまう。
好きだ、愛するという隠れ蓑で孤独を誤魔化さずに今日も君は生きれているんだろうかと。
5.長い輪がようやく閉じる
自己を世界という他者にさらしながら、どう構えたらしあわせであれるかという問いは書き手のいつに変わらぬ願いだからと、(1)の冒頭で書きました。
「他人の評価より自分が満足する句を」という要請は、やっぱりアマに向けられた言葉でしょう。
でも、愛するというもっとも貴い行為を自身に向けよというのです。
それが真剣じゃないなんて、マリア様が怒りそうなんです。
わたしたちは、自分を愛し、そしてから他者を愛するためにここに来たように思う。
創造できたか、プロかという以前に、わたしたちは人間属です。
書くことは”特別なこと”ではないのです。
たしかに一部に特別な人もいるけれど、多くの人間にとって話す、聞くと同じようにとても日常的な行為です。
書く、それはわたしたちの変わらぬ営みの1つでしかないということです。
書くという行為を通じて、いまだによく分からない「愛する」ということに必死につながろうなんて、とてもにんげんらしいとわたしは思うのです。
わたしにも、見返りを求めずという愛の解放がやがていつか来てくれますように。
また、明日も書こうとわたしは思うのです。