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わたしの名はマリオン ― 世界は、あなたから出来ている


荷物を頭に載せたからといって列車の負担が減るわけではありません。
ただ不必要に自分を苦しめているだけです。
世界の中で個人が行為者の感覚を抱いて働くこともそれと同じなのです。 (ラマナ・マハルシ)

自我意識とは、自分が行為をしているという主体者感覚をいいます。

悟りを求め続ける求道者はだから、エゴいっぱいなわけです。荷物を頭に載せた者。

あんたはん、そんなんでは、あきまへんで!と言いました。



1.私に白をください


ナタリー・ゴールドバーグという方の本を読んでいたら、『私に白をください』という詩が紹介されていた。わたしは驚いた。

  マリオン・ピンスキー


  私は白が大好き

  書くために

  私の名前を書くために。

  どうかマリオン ピンスキーに白をください。

  私は白することが好き

  私の名前を書くために、私にはできた。

  私は正しい綴りを知っている

  私は書くための白がほしい

  私の名前を。

  私は名前を書くのが好き。

  白をください、いますぐ。

  私はていねいに頼んだ。

  私は白が大好き、ほんとうに。

  書くために、書くために

  私の名前を、そうよ。

  私には自分のお金がある、ほんとうに。

  試してみようとしている。


マリオンはね、名前が書けるのよ、正しい綴りを知っているわ、自分のお金があるよ、ほんとよ。

ピンスキーに白をくださいとねがいを差し出す。誇らしげに世界に差し出す。

書き手に躊躇が無いのです。


本の著者は、文法に捕らわれないとどんなものが創造できるのかというお手本だと言ってた。

いったい誰が書いたのかというと、マリオン・ピンスキーさん。

ノルハーヴェンという施設に住む知的障害者の女性たちが書いた詩を集めた『叫べ、拍手せよ』という詩集に載っているものだそうです。

こう書いたら理解されないんじゃないかとか、バカにされやしないかということまで想像できないので、そのまんまを書く。

だから、彼女たちの書いた詩はワンダー。驚きで満ちている。


たぶん、あなたも、この文章は書けそうで書けない。

大きくなるとわたしたちは主体者感覚が強くなり、そのまんまを出すことはふつう出来ない。

もちろん、行為者だという感覚がマリオンに無いわけではないのです。

どうかマリオン・ピンスキーに白をくださいと何度も世界に頼んでますから、もちろん主体はある。

でも、他者との比較が無い分、分離した「わたし」感覚が薄く、制御の匂いがしない。



2.春の日に聞いてみたこと


春まで、かのじょは発達障害者施設で働いていました。

この詩を帰宅したかのじょに読んでみた。

わたしが、「マリオンは白のペンが欲しいといってると思うんだけど、白の字を書きたいんだろうか?」と聞くと、

「そうじゃないわ、それは紙をくださいっていう意味だと思うわ」と言う。

ああ、、なるほど。


かのじょの施設には、なぜか、作業中も帰りにも紙を2枚づつもらいたがる人がいました。

作業中、色紙をかのじょに求めて来る。

その紙に字を書くんだけど、なぜか色の無い裏に書くのです。白い裏に。

なぜ色紙なのかしらとかのじょは首をひねって来た。

帰る際、また、紙をかのじょに求める。。


施設には自閉症、ダウン症、脳性マヒの人たちが通っていました。

みんな重度の障害者で話すことがほとんど出来ません。あぁ、ううぅとか反応はしますが。

かのじょはよく利用者さんたちから、自分の名前を書いた紙をもらってきました。

見ると、たどたどしいひらがなです。

きっと母から何度も教えられた「わたしの名」を書きつけている。

施設には、マリオンほどに文章にすることの出来るレベルの人はいなくて、みな、せいぜい自分の名が書ける程度でした。

その書かれた紙を、はいと渡される。


かれらはときどき、ふさぎ込みます。あるいは、きぃーっと叫ぶ。急に旋回をはじめたり、ドアに向かって走り出す。

じぶんの意志を表現できないし、そもそも肢体はじぶんのコントロール下にいません。勝手に動く。

きっとあなたは、かれらを奇異な目で見ることでしょう。

この地上は、本来、みずからエサを取り子を残す者しかいてはいけない世界なのです。掟です。

だから、壊れたモノだとあなたが見てしまうのは、種の本能でしょう。


でも、もし、マリオンがあなたの妹だったら、あるいはあなたの子だったらどうでしょう。

その子の喜びも苦しみもあなたに大きな影響を与える。

かれらの生と死は決定的な刻印をあなたに残す。

ほんとは、そうして人は人に結び付いて来たでしょう。

人は、降る雨とも、飛ぶチョウとも、アリとも咲くヒマワリだったりキュウリとも網の目で繋がってる。

世界は無数のわたしとあなたと虫と草木と空と動物と空と海とから織りなされている。

ほんとは、奇異に見えるだけで、どのピースもあなた自身を構成している。

どの子が転んで泣いても、地球の裏側にいるあなたにやがて伝播してくる。


利用者さんが一生懸命書き、「はい」ってかのじょに差し出したものだった。よろよろした名を差し出されたかのじょは、その紙を家に持って帰って来ても捨てれません。

世界は繋がってるというのは、それは他人事ではないという感覚でしょう。

いつまでも家の居間のテーブルに載ってるままとなります。

かのじょは、捨てるに捨てれないのです。

で、無情なわたしは頃合いを見て、ゴミ袋に捨てる。捨てるとき、わたしの胸が、ちくっと言うのだけれど。


なぜ、かれらは自分の名を書くのでしょう?他には字を知らないから?

なぜ、喜びに溢れてかのじょにそれを差し出すのでしょう?母と同じ匂いのするから?



3.母とは誰なのか


マリオンの詩を読んで、障害者たちの詩として他にどんなものがあるんだろうかと調べてみました。

発達障害者といっても、からだに重い障害があって世界に自己を現わせないだけで、知性はちゃんとあるというひとたちもこの世にいっぱいいる。

かれは脳性マヒでした。

山田康文さんは手足も動かせず声も出せなかった。

で、担任の先生が、いくつものフレーズを見せながら、康文さんが納得したら彼が目で合図をした。

気に入らなかったら舌を出すといったことを繰り返しながら詩を作っていったそうです。

さいしょに来る「ごめんなさいね おかあさん」というフレーズを決めるだけでも1か月かかった。

当時、かれは中学生でした。

http://www.mariko-inochi.com/jinshouji/2009-3.pdf


『ごめんなさいね おかあさん ごめんなさいね

おかあさん ぼくが生まれて ごめんなさい

ぼくを背負う かあさんの 細いうなじに ぼくは言う

ぼくさえ 生まれてなかったら かあさんの しらがもなかったろうね

大きくなった このぼくを 背負って歩く 悲しさも

「かたわの子だね」とふりかえる つめたい視線に 泣くことも

ぼくさえ 生まれなかったら 』


これに心打たれたお母さんは、お返しの詩を書いた。

「わたしの息子よ ゆるしてね」で始まる、息子を障害者として生んだことを詫びる詩で、詩の最後を次のように希望を語って締めくくった。


「あなたのすがたを 見守って/お母さんは 生きていく/

悲しいまでの がんばりと/人をいたわる ほほえみの/

その笑顔で 生きている/脳性マヒの わが息子/

そこに あなたがいるかぎり」


康文さんは、この詩を読んだ後、次のような続きを作ります。


『ありがとう おかあさん ありがとう おかあさん

おかあさんが いるかぎり ぼくは 生きていくのです

脳性マヒを 生きていく やさしさこそが、大切で

悲しさこそが 美しい

そんな 人の生き方を 教えてくれた おかあさん

おかあさん あなたがそこに いるかぎり』


この詩はあるコンサートで朗読発表されたものでした。

その発表直後、康文さんは不慮の事故で亡くなります。

享年15歳だった。


子は、みずから名を書くことさえ許されなかった。

母は、子の行く末を想い何度も絶望したでしょう。

母は、じぶんの命と引き換えにと何度も願った。

この子を置いては行けない。。子との死も何度も考えたことと思います。

そして、子は、母がそう思っていることを知っていたはずです。

ああ、、おかあさんと何度も涙した。


完全な無能感、不全感。そこには絶望しか無い。

でも、子の詫びに母は最期の希望を与えた。

いいや、あなたは無価値ではないと。

あなたの命のある限り、わたしはあなたの魂を誇りにし、あなたの勇気を励ましに生きると。

そこにあなたがいるかぎり、と母は言った。


わたしたちは、行為者としての自我感が強いです。

他者を自分とは違う分離した物とみています。

だから、世界を生きることを標準装備されていない存在にたいして、奇異に感じ易いのは当然です。

でも、じつはやっぱりわたしたちは全員と網の目で結び付けられている。

事実、かれらの詩を読むと、ああ、母とこの胸が叫ぶ。

無情なるわたしも、切なさでじぶんの根っこを考え込んでしまう。


母とは、大いなる世界の結び目でしょう。

母は血と涙で子を生み出す者。我が身を分かち命を授ける者。

だから、授けられた子は、一生懸命ここにいますと名を告げようとする。

わたしは、マリオンよと。



4.主体が去るとき


中学生だった脳性マヒの山田康文さんは「主体」はあるけれど、ことごとく「主体者感」を持つことをはく奪されていました。

他者からの攻撃に文句が言えないだけでなく、みずから働くこともできない。だから、母を守れない。

どこから生きる価値や勇気を持ってくると言うのでしょう。

この世界で、人としての証を立てれないのです。

それだけでも耐えられないことなのに、母が苦しむ姿を見させられる。

しかも、その苦しみの原因がまさに自分自身なのです。

ここに居てはいけない存在でした。


わたしたちは、この世界を制御できないことに、うまく出来ない自分自身に怒り苦しみます。

他害になる人、うつになる人とさまざまです。

でも、山田さんの苦悩はこの世でひとが経験するもっとも辛いことだったでしょう。

エゴから逃れることが出来きた者は、その代価として重いものを背負うのです。

もう個人というアイデンティを持たせてもらえない。

だから、冒頭のマハルシの言葉は、いかにも恵まれた者たちが感染する病のことをいっていて、個を脱ぎ捨てない限り救いは無いと言っている。

でも、自分は個人であると、身体を自分だと信じ込んでいる限り、この殻は脱げない。

もし、脱出できるとすれば、大きな悲しみに打ちのめされる必要があるということです。


悟り、覚醒といった言葉は安易には使えないのです。

それは深い悲しみによる自己の脱落とともに来る。

たしかに、「主体者」は去るけれど、事実としての「主体」だけが残される。

仮にそんな境地が来たとしても、あなたがしあわせに成れるわけではないのです。

なぜなら、絶対の平和があなたに来る時、その時はもはや「わたし」という個人は捨て去られるている。

「しあわせ」を感じる個人はもうどこにも居なくなっている。

悟りは、すべての人たちに喜んでオススメするようなものじゃない。



5.世界の結節点


時々、偉い政治家が女性やマイノリティを蔑視します。

でも、人はこころで動く。

あれほど優秀なのに、自分自身のためにのみ生きる彼らは、人たちに勇気を与えられない。

「そこにあなたがいるかぎり」と他者の灯りとなることはできない。

偉い彼らでは世界の結節点を形成することはできないのです。

でも、それは政治家や財界人の問題ではなく、自我という荷物を頭の上に載せたわたしたち自身の話でしょう。


ちっぽけなマリオン。はかない山田さん。

「主体感」溢れるわたしたちは、障害者を「可哀そう」だと見るだけです。悲しみを背負ったかれらは精いっぱいに生きて行くだけです。

「可哀そう」なかれらが、母たちと同じように世界を繋いでゆく。

世界は無数のかれらという結節点から成っている。

あなたが世界を創る時、それは誇らしくも、しかし悲しみ色に彩られる。

きみは母が教えた名を叫べ、そしてわたしは拍手せよ。

とても、あなたにありがとうございます。



P.S.


わずか15歳で去ってしまった者は可哀そうなひとなのか?

イエスや仏陀ではなく、わたしたちの中からいつも生まれ出て来るこの数%のかれらこそが光を結ぶのだと思います。

悟りなどという言葉こそ、亡くなってしまえばいいのに。

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