パラフレーズをやってみた ― 誰も気が付かず誰も褒めてもくれないこと
悔しいとか辛いとかいうシーンでも、ずっと言葉がうまく使えなかった。
小学生の時はよくモヤモヤしてました。言葉が手元になかった。
大人になるにつれ、売られてないケンカまで買えるようになったけど、言葉って薄っぺらい。
分かった気になるじぶん自身も気に入らない。
『職業としての小説家』(村上春樹)からの引用ばかりです。
既に読まれた方にはごめんなさいほろほろ。長いですへろへろ。
1.頭の鈍い者が小説を書く、の論
春樹さんに言わせると、小説を書きたがる人は「鈍い人」だと言う。
小説家は、頭の中にあるものを「物語」というカタチに置き換えて、それを表現しようとしたがる。
で、次々と置き換えながら、もともとあったカタチと、
そこから生じた新しい形との間の落差を利用して何かを語ろうとする、と言う。
かなりまわりくどい、手間のかかる作業をする。
たった1行を置き換えることに命を掛けるというような人たち、だというんです。
(そうなんだ、知らなかった・・)
頭の中にある程度のクリアな輪郭を持ったメッセージのある人なら、
物語なんていう回りくどい表現は嫌うでしょう、と彼は道理を言う。
その輪郭をそのままストレートに言語化した方が話はとっても早い。
その方が、一般の人にも理解しやすいはずだ、と。
(そうそう・・)
小説というカタチに変換するには半年くらいかかるかもしれないメッセージや概念も、
そのままのカタチで直接表現すれば、たった2、3日で言語化できてしまうかもしれない。
いや、マイクに向かって思いつくままにしゃべったら、10分足らずで済んじゃうかもしれない。
きっと、頭の回転の速い人なら、もちろんそういうことが出来る。
聞いている人も、なるほどそういうことかと膝を打つことができる。パシッ!
要するに、それが頭がいいということなんですから、と村上さまは言う。
(たしかに・・)
知識の豊富な人なら、わざわざ物語というような曖昧な、得体のしれない”容れ物”を持ち出す必要はないのです。
ゼロから架空の設定を立ち上げる必要も無い。
手持ちの知識をうまく論理的に組み合わせ言語化すれば、人はすんなり納得し、感心してくれる。
で、文芸評論家の少なくない人たちが、ある種の小説や物語を理解できないのは、
ここらへんに原因があるんじゃないか、と彼は突然鋭いことを言う。
(おおお・・・)
評論家は小説家に比べて頭が良すぎる、頭の回転が速すぎるのでしょうと突っ込んでくる。
物語というスローな乗り物に自分の身体性をうまく合わせられない人たちだと、穏便な言い方をする。
彼は、「頭の切れる人」というのが素晴らしいというわけではなく、2つの人種がいるとだけ彼は言いたい。
2.パラフレーズのこと
で、村上さまは、さらに話を展開する。
頭の回転が速い人たち、聡明な人たちが小説を1つか2つ書き、
そのままどこかに行ってしまった様子を何度となく見て来たのですと。
多少才のある人なら、1冊くらいは書けちゃう(ことがある)。
(いや、そんなことないです・・)
芥川賞を受賞しても、いつのまにか居なくなった作家っていっぱいいる。
小説家はすごく効率の悪い作業をする人で、頭の悪い自分は35年以上も書き続けてる。
居なくなった人たちは、もっと自分に適する居場所をよそに見つけて行ったでしょうと。
(たしかに、あなたは一意専心、しつこい・・)
そして、彼は、いよいよ、パラフレーズの説明をしてくる。
ひとつの個人的なテーマがここにあったとしたら、
小説家はそれを別な文脈に置き換えるのですと、彼は秘密を言い出す。
「それはね、たとえばこういうことなんですよ」という話をする。
それをまた、「それはね、たとえばこういうことなんですよ」と延々繰り返す。
そうやって、言葉に表現できないところを何とか現わそうとする。
一言で言っちゃったら、消し飛んでしまうような淡いところを必死に掘る。
誰も気が付かないような、たった1行に魂込める。
まったく地味な鈍(どん)臭い作業を繰り返すという。
(おお、、一球入魂だ・・)
だから、言葉ではうまく言えないことを何とか言語化しようと熱を持つ人しか、小説家を続けられないのですと言う。
職業としての小説家は、基本的にこの掘るということに興味がある人で、
誰も気が付かず誰も褒めてもくれないことに熱を持ってる人だと。
だから、ぱっぱと言語化して気が済んでしまうような”頭の切れる”人には続けられないんですと。
(うっ、なんだか流れがヤバイ・・)
わたしは、カップヌードルだという言葉を疑わないのです。
お湯を注いだら、3分しか待てない。味や茹で具合なんか全然、気にしちゃいない。
掌に想いを載せてじっと見るってすごく不安定な気がする。
なので、すぐに言語化して、ちゃっちゃと分かった気になりたいんでしょう。
だって、カップヌードルはカップヌードルなんだもん。
詩や小説を書くことも、それらを読むことにも向いていない理由が判明して行く・・・
村上さま、わたし、へこみます・・。
いや、モリモリと考え直したっ。
3.パラフレーズをがんばってみた
聡明な村上さんなんだもの、この世は言語化できないことで溢れていると痛恨に分かっている。
それを表現することこそ、おそらくもっとも魅力的、かつもっとも価値があると思ってるでしょう。
言語化できない世界に立ち向かうのが、小説家の役割だと言っているに等しい。
その勇気も無いくせに、人の書いた本の周りをうろついて、ああだこうだと言うんじゃない!と評論家たちに言いたいのかもしれない。
彼は、単にただ発熱している電球じゃないのです。
人たちを明るく照らしたい。
燃えるような情念、使命を密かに抱えていると思います。
という根性を見習って、わたしはかのじょを相手に「パラフレーズ」というのをやってみた!
かのじょは、どこまでも女子族です。
なので、(わたしから見て)脈絡も無いようないろんなことを言って来る。
今日はこんなことがあったのよとか、あれはどういうことなのかしらねとか口火を切って来くる。
わたしは瞬間に判断して、じっくり聞くべきメッセージなのかを判別してる。(判断誤るとすごくまずい)
でも、根性出して、判断無しにじっと聞いていったのです。
かのじょが言うことを置き換え、別なたとえ、別なストーリー、別な香りに変換してから、かのじょにそれを返事として返して行く。
すごくないですか?
パラフレーズ(置き換え)を次々とやってみると、たしかにかのじょのウケは良かったです。
重層的に受け止められれば、受け止めてもらったんだ感が高まったでしょう。
言っているかのじょに別な角度からの気づきも起こる。
で、ご推察の通り、これはまったくキリが無い。
相手(わたし)が熱心に聞くということで、女子の話はますます続いて行く。
おお・・。
わたしの中の評論家成分が、だんだん落ち着かなくなって行くのが分かる・・
置き換えをしている時、気付いたことがあります。
わたしは、かのじょの言うこと、あるいはじぶんが言っていることの価値判断をぜんぜんしていないのです。
そんな暇がない。ひたすら、ええーと、これを言い換えるには、、とばかり考えていた。
相手(わたし)が解釈も批判もしてないというのは、かのじょにも分かるんですね。
女子たちは、そこは肌感覚で一瞬にしてキャッチしますから。
結果、話は深まり、そして重層的なものに変わって行きました。
すごいですね。。
いや、パラフレーズがすごいのではなかったのです。
解釈しないということがすごい。
先日の瞑想の話でいえば、「何もしない」ためにひたすらnon doingをし続けるのに似ている。
文章で言えば、書き手が、分析や評価をdoingしては話はつまらなくなる。
”正しい構え”を書き手に生み出すのがパラフレーズだった。と思う。
相手にとってはけっこうなことばかり。
なので、当然、わたしにも言わせろ!とじぶんの口が言いたがった。
もう、小学生の思い出は微かなおぼろの世界に消えている。
言葉を操れるように成ってからのわたしは、1つのことを決着付けては次に移るビジネス・マシーンに成った。
分析、判断、実行、修正・・。これ回せないとビジネス界を生き延びれなかった。そういう訓練を何十年と会社でさせられた。
いや、でも、この世には重い真実がある。
女子族は、聞き手(わたし)になんとか解決して欲しいわけじゃないのでした。
自分と相手の今の関係を確認したい種族、関係を紡ぐ人たちです。
もちろん、女子たちは口ではいろいろ言います。
「困ったわぁ~」とか「どうしたら良いのかしらぁ~」なんていう。
いやいや、騙されてはならない。
日常において、決着を付けたい、白黒はっきりさせたいなんてそもそも無いし。
問いを使って、先ず自分の今を確認したいのです。
「どの冷蔵庫に決めようかしら~」なんていう選択の時以外、会社男子はまったく役に立たない。
4.はずかしながら
わたしは、この悩ましい世界をすこしでも単純化して重荷を減らしたかったでしょう。
この世を楽しむというよりも、処理して楽になりたかった。
かのじょのような、受容するなんて余裕も無かった。
いや、きっと、わたしはここがあっぷあっぷしそうなほどに怖かった。
一方の村上さんたちは、ここを豊かに楽しみたい種族なのかもしれない。
変えれないこの世界に苛立っても仕方ないと受容し、そして、なぜという疑問に向かう。
わたしは、じぶんが小説を書くという能力に欠けているということを予感し、そうであるという事実を受け入れることをずっと拒んできた。
でも、パラフレーズというものをじぶんなりに試してみて、能力は多少は変え得ることを実感したのです。
けれど、そもそも、わたし自身がそうなること望んでいなかった。
小説家に成れないのではなく、小説家であることを望んでいなかった。
そこに、熱を持てないことを知った。
でも、村上さまは、小説家に成るとかいう狭い世界の話をしたかったわけじゃないのかもしれない。
この世にあなたも挑戦せよというメッセージだ。
ならば、あなたに習ってわたしも熱を持とう。
ちょっと意外な結論だったので、長々と書いてしまいました。
もちろん、長く書いたからといって重層的な表現になるわけではないという例となっておりますほろほろ。
P.S.
「それは、たとえばこういうことなんだよね」とわたしが受ける。
すると、かのじょはそれを受け、「そうねぇ、きっとこんなことなんだわ」と言う。
わたしは、パラフレーズにせっせと勤め、
「ううーん、それはこんなことでもあるの?」と置き換える。
そうすると、かのじょが、「それだけじゃないの。だってね、」とか続ける・・。
置き換えは、内面やこの世界のリアルに接近する1つのアートでしょう。
だから、村上さまたちはこだわるのです。
彼は、断定してちゃっちゃと処理してしまうという無責任さに耐えれない。
もちろん、ビジネスマンとしては、契約書が多くの言い換え部分で構成されていたら、まずい。
お互いに誤解が生じ、訴訟合戦が起こる。
情緒的な論文や置き換えばかりの市場分析なんて、かえって混乱する。
わたしの生まれた日時は、パラフレーズなんかしなくていい。
だから、村上さまは、立派なサラリーマンには成れなかった。と思う。
置き換えを繰り返すなんて効率悪すぎる。
いいえ、きっと、わたしたちは、この物理世界に接するようには、心理世界には相対せない。
ビジネスばっかり邁進する者たちは、あまりにこの違いを無視しすぎているのかもしれない。
心理面を正当に扱うことから逃げているともいえる。
だから、村上さまは、最初からサラリーマンに成る気は無かったでしょう。
彼の生き様も分かる。
ああ、、わたしはじぶんのそれも分かる。
わたしは、動物と鳥の間に挟まってしまったコウモリのよう気がする。