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書くことを辞める人、続ける人 ― 最初は「楽しかった」はず


薄々、気が付いてはいたんです。

じぶんは、書かないでいることはもう無理だなって。

わたしは、「喜び」が強いので辞めれない。

書くのをいつか辞めてしまうかもって予感する、あなたに向けて書きますほろほろ。



1.最初は「楽しかった」はず


最初は、あなたも書くということが断然、面白かったはずです。

「義務」2個、「喜び」10個みたいな状態だったでしょう。

あなたのこころは躍動した。

それが、フォローしたりされたりする内に「義務」が増えて行った。

「喜び」がぐんぐん減る。

他者が書いたものをみちゃうんですね。こんなものが書きたいって思ってしまう。

そうすると、「義務」10個、「喜び」3個みたいになる。

それでも頑張って書く内に、「喜び」がまた少し盛り返して来る・・。


長くがんばっても、ある日、サイトをシャットダウンしてしまう人がいます。

周囲から見れば、キラキラした感性と躍動感、素晴らしい文章を書ける人がなぜ退会してしまうのかと不思議です。

でも、当人はフォロワーの期待に押しつぶされ、「喜び」をもう感じれなくなったでしょう。

「義務」10個で「喜び」1個。。辛いのです。


”道”と付く茶道や剣道、短歌や俳句は「型」を持ちます。

これは最初はルンルンとはならないのですが、型にはめるので学ぶにはもっとも効率が良いのです。

ところが、わたしのように日常を描くエッセイは型を持ちません。

だから、すごく暗中模索します。でも、「自由」なのです。

創造性は誰でも好きなのです。創造は、こころ自由な時に現れるから。

エッセイを好む人は、こころ自由に動かしたいでしょう。



2.なぜエッセイを続けているの?


13年間エッセイを書いて来ました。

じぶんの身の回りから見つけたことを書きます。

じぶんではよく分からないことを角度を変え書き換えてみる。

じぶんでは思ってないようなことをしてしまった、なぜ?と問うてみる。

こころが嬉しがっても、なぜ嬉しいんだろうかと、辛い時悲しい時もなぜかと自問する。

それは、「気づき」だと思います。

考えるのが趣味だなんて人いません。理由もなく、しつこいヤツなんていません。

なんでも続くには、喜びが無いと続きません。

わたしは、「気づく」ということが無条件にとても嬉しいのです。


うっすら疑問だったことを胸はずっと抱えます。

その抱えているという感覚に敏感なんでしょう。

いつか、晴らしてあげたいんです。

気づきによって、背負っていた重荷をようやく手放して解放されるという感じです。

ルンルンとステップ踏むくらいに嬉しいっ!

ああ、、そうなのか、そうだったのかっーという解放感、納得感が来ます。

来ません?


わたしは、何でも喜んでるわけじゃないです。

ブログ以外でこんなに続けれてることなんて、食後の皿洗いぐらいしか思いつきません。

(料理に才の無いわたしは、かのじょをすこし助けれるという「喜び」が密かにある皿洗い)

周囲から見たらなぜ続けるのか分からない場合でも、当人にとっては喜びがあるのです。


すぐに辞めてしまうような場合は、「喜び」より「義務」の影を強く帯びます。

書けた方がいいし、書くのは面白いし、書けば他者とも繋がれるし。

で、あなたは、いつのまにか、そういった理由を盾に続けようと身に強いるでしょう。

「義務」10個で、「喜び」5個なら、重荷と認識できます。すぐに辞めれる。

辞めてしまうこと自体は悪いことではないです。

あなたが、辞めてしまうことを危惧するのは、もっと違うことを気にしている。

単に続けられないという根性の無さや世間体を気にしているのではないでしょう。


わたしたちは、単純な計算で行為継続の判断を決めてる。と思う。

「義務」10個で、「喜び」10個なら、かなり続きます。

でも、「喜び」が10個でもあやういのです。

「喜び」が30個も100個もあったらどうでしょう?

あなたも断然続けるでしょう。

たぶん、あなたが、辞めてしまうことを危惧するのは、潜在的に内に存在している「喜び」のことでしょう。

その子に出会えないままに、分れることになるかもしれないと。。


多くの人は、内にある「喜び」100個を開発せずに終わります。

当然です。「型」のない道の辛いところです。

エッセイ好きな者は、独力で「喜び」開発をしないとなりません。

「型」を持つ俳句は、この「喜び」開発に優れます。

本来内にあるはずの「喜び」100個を、じぶんがフル解放できるのかというのが書くことの主要なテーマとなります。

視点を変えると、エッセイのような記事を書くことには、2つの狙いがある。

① 書くことで少しづつ自分が展開して行くということ

② 書くことが自由に繋がっているということ

たぶん、わたしはこの2つの軸を、ああでもないこうでもないと毎日掘り返しているのです。



3.自分が展開して行く


意外なことに、じぶんとやり取りをして書くと、じぶんの内外を見る角度がすこしずつ変わって行きます。

じぶん自身が、じぶんのした考察や気づきの影響を受けるのです。

気づけないかもしれません。変化は、ごくごく小さなものですから。

でも、それを毎日まいにち積み重ねている。

そうすると、内外を深く掘るので、そこのイメージや考えがクリアになります。

より詳細になる。もっと言えば、土が耕作され豊かになる。


な~んだ、地面じゃんと今までは単に処理していただけなのですが、落ち葉もあるし、ミミズもいることに気づきます。

湿り気があり、硬さも一様ではありません。

食物を植えるに適した黒色の豊かな土壌にも気が付く。

夏は乾燥して土埃が上がります。冬には、地表が凍り氷柱が立ちます。

じぶんが土に囲まれ生かしてもらってたという認識が育つかもしれない。

わたしが土や山や川に対する態度が変わってしまう。

ああ、、在るのね、じゃ済まなくなる。


書くプロセスの中で考えるわけです。

こうなのか、いやああなのか、と。

さらに、なぜそう思うのかと深めて行くことになります。

単に表層をなぜただけでは、じぶんに驚きは来ません。

他者も読んで、ああそうかって思ってくれないでしょう。

書くことは、読み手に気づきを与えるというよりも、

書くことでじぶんをより深く発見し、じぶん自身が少しすこしと変わって行くのです。

ほんとうに。

これって、すごいことだと思いません?

人の生き方に関わることでしょう。



4.なぜ時間が問題なのか


若いわたしのことを思い出しました。かなり生意気でした。

40歳以上の人はこの世に要らないとまで思ってた。無能な管理職たちが邪魔だった。

わたしの上司の上司は、何故かそんなわたしを可愛がってくれて時々お酒に誘ってくれました。

ある時、こんなことをわたしに言いました。

「世の中、切れるヤツはいっぱいいる。頭は良い。

でも、カミソリなんだな。それでは大木は倒せない。

お前は鈍くてもいいから、斧になるんだ。

すぱっとは切れないが、ずんずんとしつこく木の根を叩くんだ。ずーっと叩くんだよ。

そういう鈍い斧を持つやつは、すごく少ないんだ」

上司の上司は、専務にまであがって行きました。


書くことで少しじぶん自身を発見し、そして、発見が受容される。

じぶん自身が少しすこしと変わって行く。

それは、100日、1000日でどうとかいうようなものではないのです。

石をも穿(うが)つ、みたいな話です。雨だれがいつの間にか石を変えてしまう。

あなたは、画面に作用して文字を打つでしょう。

その文字が逆に作用してあなたのこころをトントントンと打ってゆく。

こころは、はいそうですか、と急には変わりません。

時々に来る気づきを素直に喜べるなら、かなり長く続けられます。

そして、鈍いなりに斧を磨けるでしょう。

喜びを伴うものならば、ずっと続きます。いや、もう、辞めれない。



5.書くことは自由に繋がっている


「喜び」より「義務」の影を帯びていると、続きません。

別に、書くことを続けなくてもいいのですが、ことは心の自由に関わっている。

何度も書きますが、心遊ばせることが出来ないと創造性は生れません。

shoudやmustを外さないと、心広々と出来ない。

書くことは、読み手(他者)を当然意識するわけですから、とてもこれが難しいのです。

でも、修練だと、レッスンだとわたしは諦めました。

けっきょく、他者のために書くわけではないのです。

そして、わたしは、プロではないのです。

こころ自由に遊ばせたいのです。こころ広々と生きてみたいのです。

ブログという時空を使って、いかに心を遊ばせるか。

とても、興味深いテーマだと思う。もちろん、続けることが目的ではないのです。


男子ですが、老婆心ながら書いてみました。

応援しております。

言い過ぎていたら、ごめんなさい。

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