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継続してずっと書くということについて


ずーっと続ければ、蓄積が効果をもたらす。だから、継続は力なりと言う。

でも、継続するかは、根性や意思の問題なの?

かなり、疑問だ。

続く人にとっては、たまたま続いてしまったというようにも思える。

その人にとっての根本的な”飢え”がたまたま幸いしただけのことかもしれない。

どうなんだろう?



1.お勉強


母は、いつも小さなわたしに「バカ」「バカ」と言ってた。ひどい母親です。

彼女自身は、「わたしは勉強はだめだったけど、運動はできた」と威張ってた。

むちゃくちゃだ。


山奥の小さな村でした。

クラスも2つしかなかったけど、勉強できる人っていた。

A子とB男はいつも1番か2番だった。彼らは自慢もせず、静かに優秀だった。

でも、わたしは50点しか取れず0点もあった。

母の言う通りだ。確かにわたしはあなたの子だ。


小学5年の時、ふと思い立った。

あまりにじぶんがおバカなので、じゃあと予復習してみた。

先ずは唯一好きな社会科から。さすがに、そこの成績はあがった。

1つの教科がよくなれば、他もよくなる。

そうして中学1年となり、試験の1か月前から範囲を復習しだした。

2年となり、3年となっていった。


勉強って地味で根気がいる。

ずっと「1か月前から」を続けるのかと思うと、気が遠くなりかけたことを覚えてる。

でも、事前にがんばる以外の手を見つけられず、定期試験前の1か月前から勉強し続けた。

やがて、いつも一番上にいたA子とB男に近づいて行き、いつの間にか彼らを追い越した。

意外にも、誇らしい気持ちはなかった。

頑張って続けていたから、結果が良くなっただけだった。

授業を聞いているだけでOKの彼らとは、どこまでもモノが違う。

1番になっても母はお前は賢いとは言わなかった。

わたしは、どこまでもあなたの子だったのだ。


高校は電車通学となって、ある時、B男がふらっとわたしが座っている電車の座席に来た。

これはどう訳すのかと英語の教科書を聞いてきた。

うん?見ると、簡単な文だった。こうかなと、教えた。

彼はありがとうといって去った。

B男は、勉強を続けるということをして来なかったのだと気が付いた。

あんなに頭が良いのに・・。

意外なことに、頭の良い人はずっと勉強し続けることができないのだと気が付いた。

既に頭が良いので、きっと「勉強出来る」ことに飢えがない。


A子はいろいろあって、チャライ男に妊娠させられて高校を去った。

彼女にとっても、「勉強出来る」は優先順位筆頭にはなかった。

彼女の母親が自殺してしまう。A子は、不安定な精神状態の家庭の子だった。

ひたすら頑張るなんて、単純に没頭できる環境も必要だ。


わたしよりずっと頭の良かった彼らだった。

だから、きっと勉強を続ける熱を持てなかったのだと思う。

そりゃそうだ。人生には追うべきことは他にいくらでもあるんだし。

母は、いつも幼いわたしに「バカ」「バカ」と言っていた。

だから、わたしは勉強し続けた。

わたしは、きっと悔しかったのだと思う。

であるならば、ほんとは素晴らしい母親だったのか?

いや、そんなことない。

不慣れな農家に嫁いで大家族の中で孤立した母が唯一、ストレスを吐けた存在がわたしだった。



2.ネットで書く


書くという世界にもすごい才能の人がやっぱりいた。

けれど、才能ある人はずっと続けないように思う。

いつのまにか他所に居場所を移して行く。

わたしは、やっぱりオツムの調子が良くないから、ずっと書き続けている。

ときどき、書く才能あるなぁ~という人の記事を読むとへこんだ。

へこんではまた書き出し、そうして13年ほど経った。

わたしは、なぜか、辞めなかったのです。

さいきん、へこんだからといって「もう辞めよう」とは思わないじぶんがいます。


書き続けてもお勉強とは違って”うまくなる”ということはない。

ここでは、継続は力、ではない。

書き続ける唯一の効果は、「もう辞めよう」とは思わなくなるぐらいかもしれない。

あるいは、他者とだんだんと比べなくなるということかも。


才能に関していえば、プロとアマの違いはない。

書ける者はもう二十歳で書ける。

いや、プロとアマの違いってある。

プロは、出来が悪くても良くても、それなりの水準にして納品する。

プロもへこむんだそうですが、ずっと書き続けられるという者がプロで居続けられる。

継続とは、大事な才能かもしれない。

才能のあるアマもいっぱい見たけれど、いつのまにかアカウントを削除していった。

あるいは、書籍の出版をしても消えて行った。

天より才を与えられなかったから、わたしはずっと勉強するし、ずっと書くのだと思う。



3.わたしが言われたこと


今夜、飲もうという。

以前にも触れたけど、新人の時、わたしを採用し可愛がってくれた部長がスナックでこういった。

「カミソリのように切れる者はいっぱいいる。

けれど、大木は斧でしか切り倒せないんだ。カミソリでは無理だ。

お前はずーっと木を叩く斧になれ。」


切れる者は、器用に立ち振る舞うことが出来る。対処できてしまうのです。

でも、愚直にやり続けないと大きな転換ということは起こせない。

ずっと叩きつづければ、いつか雨だれも石をうがつ。かも。

部長は励ましてくれたのだろう。

けれど、お前は切れないという事実を突きつけてもいた。


おバカな者は、自身を頼れない。だから、マメにやり続けるしかないのです。

いや、勉強しつづけても、仕事がんばり続けても何も驚くようなことは起こらなかった。

続けることが出来るなら、悔いが無いということでしかないのです。

自分に頼れないから、いちいち自分自身と対話する。

やれるかな?だめかな?ほんとに、おれはこんなことし続けたいのかな?

いろいろ自分に問うてみる。

のだけれど、既に胸には「継続」という掟が書かれてしまっている。

やり続けるしかない。


才能ある者は、1か所をずっと長く掘るということはなかったのです。

恵まれた才能や外見、親の財は、それが当人にとっては当たり前となる。

継続するという才能は、才能の欠けがもたらしている。

何も持たない者はやるだけやって悔いがないという道しかない。

やるだけやり続け、成るように成るしかないというと、身も蓋も無いような気もするんだけど。

ただ、やがて時が来て振り返った時、悔いが無いということは大切だと思う。

であるならば、他者の才能を羨んだり比較するのは筋違いとなります。


なぜ、じぶんが書き続けるのか?

いつもその疑問が湧くけのだけれど、いつもここに答えは無いのです。

「バカだバカだ」と言われたから、わたしはずっと考えるはめになった。

お陰で、じっくりじぶんと話し合うのでしょう。

自己との対話というけれど、実際はそんなカッコイイものでもない。

でも、自分自身との間にウソや悔いがない。

書き続けるということは、考え続けるということです。

この世で一番理解できない「わたし」を知るために。




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