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わたしを紹介して見ます


あなたがもう一度読みたいと思う文章には、情緒があるんだそうです。

たま~に、わたしの書いたものを遡って読んでくださる方が現れます。

とっても嬉しい、でも、とっても恥ずかしい。

でもねぇ、、わたし、もう子どもじゃないんだし、パンツの中まで見られるわけでもないんだし。

と、ずいぶんな大人となったわたしは考え直す。

そうだっ、いっそのこと自己紹介してみよう。

というか、その方が自己紹介してた。


それは、普通の自己紹介ではなかったのです。

ある1つの点に対して、良い悪いではなくていろんな角度から自分の好みや偏りをずーっと描いていた。

わたしは、あなたを総体として受けとった。

”わたし”という言葉をよく使うけど、この世界にそんな実体は存在しません。

”わたし”とは、こういう面もあり、あんなこともしてしまうという総和でしかない。

一言で言えず、ほんとは列挙するしかない存在です。

でも、日常でそんな列挙を一々していたらジュゲムジュゲムになって、何にも出来なくなる。

なので、”わたし”と省略している。

可能なら列挙することで、また、本人も気が付いていない無意識な面も現れて来る。

ああ、、それはとても面白いこころみだなとわたしは思った。

わたしも、”わたし”という情緒を現わしてみたいっ。



1.タイプ


前置きしたい。

好みということでいうと、人たちはタイプ別に20分割され、それぞれは狭い窓しか持てません。

こころは、窓の開く景色しか見れない。

人たちは、タイプが5%づつに分れているでしょう。

その根拠は、大胆にも、村上春樹の小説が総人口の5%ほど(500万冊)しか購入されないということから来ます。

村上様でさえそんな数なのです。

なんべんも書きますが、わたしは彼の小説がまったく食べれない。

彼のエッセイはすべてガリガリと食すのに(すごく美味しいっ!)、小説は体が拒否してしまう。こんなの嫌いっ!と吐き出してしまう。

こんなにお慕い申し上げているのに、神様の主戦場が苦手です。


アクセス数に対するスキやイイネの数を見てみる。

じぶんの書いたものに、イイネと肯定される方の比率もきっちり5%です。

わたしの場合、渾身の力を込め数日うんうん唸って書いても、5%の法則が貫徹する。

”お付き合い”でイイネされてる方もおられるでしょうから多少変動しますし、

なんの気まぐれか、その日たまたまわたしの技量がもうれつに上昇すると10%ということもあるのですが。

なお、10%のものは起承転結がクリアでオチがあるものです。

が、繰り返し読んでくださる方の場合、たぶん、起承転結もオチもあまり気にしてないと思います。


あなたも文章書きでしたら、これは残酷な事実です。

20人が見てくれたなら、その内の19人があなたに興味を持てないということですもの。

(もちろん、あなたがうら若きオトメなり有名人なら、もっと良好な数字をたたき出しているはずです。

でも、書き手の属性で惹かれた読者は長期にわたって読者ではいてくれません。)


きみが好きっ!とがんばって告白してもたいがいNoと言われてしまうことに近い現象です。

なんだか自分が全否定された気になる。

告白してそれが1勝1敗程度なら我慢できるんですよ(1勝3敗でも)。

でも、相手も「わたしもあなたが好きよ」と言ってくれる人に合うには、最悪19回もチャレンジしないといけないなんて・・。

だから、成就すると、わたしたちは運命の出会いを果たしたのねと言いたくなる気持ちは分かる。

でも、たぶん、運命のせいではないのです。

人たちが自然とタイプ別に20分割されているということの方がリアルでしょう。


情報収集の方、情報発信の方を除けば、内容や文書作法というよりも、書かれている情緒が決め手になるでしょう。

そうじゃないと、もう一度読みたいなんて思わない。

たとえば、ちょっと引いて自分を見ているその距離感。

でも、熱いものもあって、それは秘められてはいるけれどついぽろりと出てしまう様。

あなたの照れ、戸惑い・・。

葛藤を抑制しながらも誠実に表現しようとする在り方。

なんだか、悲しみを帯びていて、どこか懐かしい文章。

気が付かないけど、独特のリズムが流れてる。

・・・みたいな情緒に、わたしは弱いです。

するすると惹かれてしまう。書き手が誠実であれば、もう抵抗できない。みたいな。


読む対象とは、あなたはあなたの情緒が、わたしはわたしの情緒が決め手となっているでしょう。

くどいですが、意外と内容ではないのです。

ということで、わたしの情緒が伝わるのは、全体のわずか5%のあなたでしかない。

他者承認に邁進して来たわたしは、人類全員にイイネして欲しいのですが、そこは諦めた。

5%の方たちは、ある種の仲間なのです。

それほど、情緒って重要なものですが、これがまた説明しにくい。

で、わたしの情緒傾向を総和として表現してみたい、です。



2.遠い国の、遠い街で


そんなことは意識していなかったのに、父がかつてここに来たという話を思い出したわ。

夕闇が迫り、雨が降り出した。

この街の人たちは綺麗な傘をさすのよ。鮮やかなの。

ビルの灯りが雨の溜まって行く路面に逆さ写りし、とっても綺麗だわ。

時々、そこをクルマがざーっと蹴散らして行くんだけど、でも、大丈夫。

すぐにまたビルの窓が綺麗に立ち上がるの。


わたしは、駅に引き返し、ボストン近くのホテルに向かおうとした。

駅の中央にはピアノが置いてあり、誰かが弾いていた。

売店でパンを買って、またピアノの前まで来てみるともうさっきの人はいなかった。

わたし、椅子に座ってみたの。



彼女は駅に置いてあるピアノで、The Long and Winding Roadを弾いたのです。

こんなトーンだったか。

https://www.youtube.com/watch?v=FZNJKyfxoXs

夕暮れが似合う。わたしのこころが、めろめろになる。

なんでビートルズのこの曲を弾いたの?

それは僕の好きな曲で、きみのじゃないのに。


果てしなく歩いて歩いて、でもきっと行き着かなくて、泣いてばかりの日々が今日も過ぎて行く。

悔やんでも悔やんでも、もうきみに2度と会うことは叶わないから、ごめんが言えないままだ。

夕闇に雨が重なり始めたら、わたしも泣いちゃうよ。

雨には弱いんだ。

いや、とぼとぼとでもいいから、僕は父と母の居た家に帰ろうと思う。

誰の力にも成れなかった情けなさに酔ってる場合じゃない。

明日もまた、奮起してやんなくっちゃならないし。

でも、ひとりトボトボは辛い。

こんなこといつまで続くんだろう?


こっちは晴天だ。

夕闇が濃く降りて来て天蓋に向かって蒼のグラディエーションを描き始めた。

吸い込まれるその先はどこなんだろうといつも不思議に思って見上げてる。

すこしわくわくするような、でも、切なくて悲しいその蒼だよ。



わたし、ぱらぱらとピアノを弾いたの。

横を通る人たちの中には足を止めて聴いてくれる人もいたわ。

その曲はあなたが好きだったものよ。

へんね。言葉が通じなくても歌はどこでも伝わるって、考えてみるととっても不思議なことね。


わたしが泣いた人とは、どうして通じあえなかったのかな?今も不思議なの。

ホテルではやっぱり悲しい気持ちを抱いて寝ると思うの。

こんなつまらない話を聞きたがる人はもう居ないもの。

ええ、永遠が3回くらい巡って来たらいいのになってよく思うわ。

3回目あたりで、ひょっとしたら、ハッピーエンドが待ってるかもしれないよね。

ほら、夏の夕暮れにあの河のほとりにふたり佇むの。

だから、あの曲を弾いたの。



3.ありふれた風景に弱い


わたしは、こんなシーンをよく思うのです。

作家だったら、もっとうまく書けるだろうに、母はそれをわたしに組み込まなかった。


わたしは、理屈っぽいなって思う。

論理を大切に考えると言う割に、ほんとは感覚的だと思う。

そんなことはあまり人にはいいません。

HSP、感覚過敏というカテゴリーで表せば通じますか?


星が流れたと言ってはウルウルし、真っ赤な夕日に感無量となる。みたいな。

とくに、雨に弱い。

男だなんていう気張りはすっとんで胸がぐにゃりとしてしまう。

ザーッと降れば芯から清められるし、シトシト降り続けばもう尼寺に籠ってるような感じに。大袈裟か。

前世というものがあるのなら、わたしはぴかぴかの女子だったと思う。

で、今回はロマンチック男子だといいたいのだけれど、すごく激怒したりもする。

人の心や身体の何気ない動きにもアンテナ立ってしまう。

今でも、ちょっとじぶんを持て余す。


きっとわたしのハートは胸にあって、流れる星、散る葉に揺れる。

揺れるだけではただのロマンチでしかないけど、お空に向かって開きたい。

この肉体と脳はわたしを縛っていて、でも、時折、その縛りが喜びで解ける時があります。

わたしは、人の悲しみや苦しみも、もちろん喜びも浴びたい。

そうやって、人たちの喜怒哀楽で助けてもらって、ハートをあの天上に吸い上げて欲しいのだと思う。

それは、ごくありふれた生活の1コマでじゅうぶんなのです。

ささやかな、隅っこのことで満ち足りるのです。



4.内向と外向


ユングがクライアントを診察している時に、はたと気が付いて導入した区分です。

内向というのは、内股で恥ずかしそうにしている人ではありません。

外交というのは、きらきら友達多くて活発ということではありません。

内向的でも活発な人もいるし、外交的でも恥ずかしがり屋もいる。


わたしたちは生き物ですから、外界の刺激をセンシングして取り込んでいる。

でも、人によって外界情報をどれくらい重くとらえるのかということに差があります。

外交的な人は、外の刺激を非常に重視する。

極端になると、他者のいう言葉を受け入れ易いし、外界を「正」とする。

あるいは、外にばかり目が行く。

外のモノで内にある苦を補填しようとするかもしれない。


内向的な人は、より自分の内部に目が行く。

悩み易いかもしれないし、閉じこもるかもしれない。内なる世界が気になって仕方ない。

内向的なわたしは、外の世界に興味はあるけれど、じぶんの内なる世界の探索に忙しいという感じです。

出歩いたり友達作ることは苦手というよりも、2ndの優先順位に置いているようです。

そりゃ、わたしだって、友だち欲しいし人と話すのは嬉しい。

話す時は、いっぱい話す。

よく、人とお酒を飲むんでしょうと言われるけど、そこまで外交しません。

しないで済むので、そこまでしていないのです。


心理学や哲学、宗教、精神世界に強く惹かれる。

出自は理系なので、自然科学全般が大好きですが、それもこの宇宙の真理、この世界の美に惹かれるからです。宇宙はわたしでもありますから。

でも、わたしは、いわゆる神も仏も嫌いです。宗教は組織を作って縛る。

宗教と宗教心とはまったく違っていると思っていて、宗教心にはふるえます。

でも、宗教組織が言う真理は、他者に伝えてもらうというような筋のものではない。施しモノではないでしょう。真理は組織では扱えにくい。

外交的な人たちは、外に真理を求めますが、わたしは内向者。

だから、イエスがそもそも言った「神の国はあなたの中にあるのです」という言葉を大切に思ってる。


世間の言うことには強く反発するし、道徳も天皇も大嫌いでした。

でも、考えてみると、反発する必要も無かったのです。

外部からの強制の匂いに敏感になっていただけで、ほんとは内面の深いところを探りたかった。

ずいぶん大人となった今では、神道の総元締めの天皇自体に関心がある。



5.思うに


こんなふうに、じぶんの多面をあれこれと並べ始めて思いました。

ああ、これはまだなんにもわたしを説明してはいないと。

わたしの情緒の根っこを描くには、母とのこと、かのじょのこと、子どもの頃のこと、好きな曲や絵や詩のことを描かないとならないと。

でも、長々と根っこたちを並べても、実はあんまり説明にならないのですね。


ああ、残念です。

そもそも情緒とは、言葉では描けないものでした。

動きの中、流れの中であなたがしみじみと感じる情感のことですから。

わたしのAやBやCが示されても、そこにはあなたの胸をドライブする動きは起こらない。

ということで、わたしという情緒を束ねてみたいという試みは、さいしょからアホな試みだったのでした。あは。


あなたに感謝申し上げます。

とっても嬉しい、でも、とっても恥ずかしいのは変わりません。

この話をあなたに書きました。

あなたにも、良き一日でありますように。

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