Rita

人のために生きると言うことはどう言うことなのか、最近ぼけーっとよく考える。

世のため人のためとか、ざっくり社会貢献とか。
もっと小さい世界で見れば、推しのビール代に繋がるであろうグッズを大量に買うとか。

親が子に向かっていう「あなたのために言ってるのよ」とか、
恋人が恋人に対して言う「お前のことを思って」とか。

私は直接的に自分のために頑張ることができないタイプの人だ。
「自分がどうしたい」というより、「この人にどう思われたい」ということが行動原理になっている気がする。

人に対してもモノに対しても好き嫌いが極端な私なので、好きな人、モノに対しては資本も努力も惜しまない。

ただ、思うんだよね。
それって間接的ではあるけど自分のためにやってるんだって。
だからこそ余計「あなたのため」と言う言葉が姑息に聞こえる。

直接頼まれたことではない勝手にやると言う選択をした時点で、それは自分が進んでやったことに違いない。

確かにそれを無碍にされたら不快千万だけど、向こうからしたらそれはありがた迷惑になる可能性がある。

例えば私は甘い飲み物が得意ではない。
だから例えば、コーヒーを買ってきてね、と頼んだとする。
その人が良かれと思ってガムシロップを入れて持ってきたとして、「なぜその一手間を"わざわざ"やったんだ」と落胆しないこともない。

"ありがたさ"よりも先に、落胆がくるのだ。
そうだったとしても、相手としてはその一手間を良かれと思ってやってるんだろうから何か苦言を呈することだってできない。

ちょっと話を戻すと、そう言う「相手を思って行動をすること」が裏目に出てしまう可能性が少しでもある限り、「人のため」と言う言葉を使うのはちょっと怖いなと私は思ったり。

良かれと思って友達のLINEの返信を早く返す。
もしかしたらそれは相手からするとプレッシャーに感じるかもしれない。

良かれと思って肉じゃがを作って恋人の家の冷蔵庫に入れておくとする。
もしかしたらその人は今日中華を食べたかったかもしれない。

良かれと思って…あなたのために…

もうそれはある種呪いに近くって、何気ない言葉が圧になったり、文字通り腐りかけた惣菜が部屋中の空気を悪くするかもしれない。

それでもやっぱり、私は私のために「好きな人のために」何かをしたい。
究極のエゴイストだなぁ。

何が姑息って、「あさ湯ちゃん、気遣いできるいい子」って見えるとこだよ。

私はいい子ではないから、自分のために胸を張って何か頑張ることもできなければ、
強くもないから、「あなたが好きです、だからあなたのために頑張りたいです」とも告白できない。

利他…Rita…

私の人生を通して胸を張って大好き!と言える、もはや私自身のアイデンティティにもなっているアーティストのこないだのツアータイトルがRitaだった。

結局ツアー公演始まりから終わりまで利他とはなにか考えてたけど分からなかったなあ。
いつかわかる時が来たら、その時はせめて、自分のためになにか頑張れるものが欲しいなと思う。

そういえば、あれ、頑張るって、もうそれ自体がなんなのかわかんないね。
頑張らなくていいもいいんじゃね?

空に浮かぶ気球に乗って流されていこうよ。

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