死にぞこない菫

私は植物が好きだ。
家のあらゆるところにコーヒーやらパキラやらの植物があり、
毎年株分をしたり、剪定した先から増やしたりしている。

植物には薬にもなれば毒にもなるやつもある。
私の家にある植物は何も花や葉っぱの状態のものだけではない。

種子として存在しているもの、例えば、トリカブトがある。

幼少期より慢性的な鬱状態にある私は、突発的に死のうと試みては失敗し、
今は「死ねなかった時のリスク」を考えることで漸く「自死に至る行為」を抑えている。

私は自分の命にリミットをつけて、そこまで耐え忍ぼうという消極的な理由で生命活動を続けてきたような気がする。

「ランドセルは高いからそれまでに」
「中学校になったら制服が高いからそれまでに」
「高校は義務教育じゃ無いからそれまでに」

殺してあげる

それが私の母の口癖だった。
私が警察に保護されるまでは「いつまでは生きていられる」という気持ちだってはずなのに、
いつから「いつまで生きていなければいけない」という呪いに変わったのか、だれか赦してくれ。

社会人になり、人生の転機というものが少なくなり、私は死ぬタイミングを失ってしまった。
どうせ死ぬなら悲劇の真っ只中、もしくは美しく物語の主人公のように死にたい。

私が消えても続いていく社会という学芸会の中で、私は私の世界の中では主人公を演じたい。

だからトリカブトの種を買った。
これを来年の2月に蒔いて、夏頃に死のう。
そのように鬱が悪化した休職期間中におもった。

思ったのに。

二月、復職をした。信頼できる上司ができた。

三月、私のことをとても好きだと言ってくれる人ができた。

四月、その子といろんなところへ出かけ、温かい気持ちで涙することを知った。

五月、会社で新しいプロジェクトのリーダーに任命された。

種を蒔き、芽が出る頃の今、死を考えたことがないその数ヶ月、部屋の掃除をしていた先ほど、トリカブトの種をみつけた。

種を蒔くことなんて、この目まぐるしい日々の中記憶から飛んでいた。
来年、私はこの種を蒔くんだろうか。

それともまた、蒔くことを忘れられるようなよろこびに出会うんだろうか。

そんなことを考えながら私は生きた証として、死ななかった証として文章を書いている。
もし私が死んだら、紫陽花の下に埋めて欲しいと思いながら、それでもそれまだ、今年の話では無いんだとぼんやり考えながら。

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