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感情の埋葬(あなたの名前を書けなかった話)

 あなたにこうして出すことのない手紙を書くのは初めてではない。クロアチアにある「別れの博物館」の展示が東京にやってきたとき、「さよなら」を書いた紙で紙飛行機を折って置いてゆけるコーナーがあったので、私はまよわずあなた宛に書いた。具体的に何を書いたのかは、忘れてしまった。
 読まれない・届かない手紙を書くたぐいのワークショップにぶつかるたび、私はあなたに手紙を書いた。学校で毎日顔を合わせて、休み時間も放課後も喋りづめに喋っていたのに、授業中には互いに手紙を書きあっていた高校生の頃を懐かしみながら。

 瀬戸内海の豊島を訪れ、ボルタンスキーの「ささやきの森」で立ち尽くしたときも、あなたの名前を思った。瀬戸内国際芸術祭の夏会期で、八月になったばかりの酷暑のなか、ゆるい坂道を十五分あまり登ってたどりついた森には、透明なアクリルのプレートのついた風鈴が樹々にたくさんぶら下がっていた。その日はほとんど風がなく、時折かすかな空気の揺れにひとつふたつの風鈴がささやかに共鳴しても、力の限り鳴く蝉の声にかき消されてしまった。それでも、アクリルのプレートには「だれかの大切な人の名前」が刻まれていると知って、私は胸が詰まった。
 あなたの名前を刻みたい。
 いまは真夏の強い陽光が樹々のあいだから地面にこぼれ、私を含め三、四人の見物客が森の入り口をさまよい、耳を澄ませ、気まぐれにプレートを裏返して刻まれた名前を読んでいる。やがて日が落ち、公開時間が終了してひとびとが立ち去り、森は立入禁止になり、夜になり、雨が降り、季節が変わって冬になっても、アクリルに刻まれ枝に吊るされた無数の名前はいつまでもここで、鈴の音とともに静かに揺れているのだ。
 そこにあなたの名前を加えたかった。あなたに発見される可能性は万にひとつもない。あなたは私に付き合わされる以外で現代芸術に興味をもっていたことがないし、時間と交通費と体力を費やして瀬戸内のちいさな島の山道を登ってこの場所まで来るなんて、私が知るあなたならしない。それでも何かの奇跡的な偶然で、あなたがここにたどり着いたとして、無数のだれかの大切なひとびとの名前から、自分の名前を拾い上げることは限りなく不可能に近いはずだ。
 自分のあずかり知らぬところで、自分の名前が「だれかの大切なひと」として森の樹に吊るされることを、あなたが喜ばないのはわかっていた。ましてやそれを書いたのが私ならば尚更、あなたは私のこういう感傷を好ましく思っていなかった。あなたから私に最後に送られてきたEメールにもそう書かれていた気がする。長いこと読み返していない。
 私に「あなたに気づいてもらいたい」という期待はまったくなかった。これは完全に私のための儀式だ。私の想いの弔いとして、これ以上のものはないと思った。

「ささやきの森」に名前を刻む手続きは、豊島にあるもう一つのボルタンスキーの作品「心臓音のアーカイブ」で受け付けている、と案内に小さく書かれていたのを、私は見逃さなかった。
「心臓音のアーカイブ」は唐櫃港から十五分ほど歩いた唐櫃浜の手前にある。ひとけがなく、空も海も青い楽園のような浜辺を背景に白く四角い施設が佇んでいた。世界中のひとびとの心臓音を収集している世界の果ての海辺のラボ、このイメージはあなたもきっと好きだろう、といま書きながら思う。そういう世界観を偏愛して、私たちは十代を過ごした。
 展示を鑑賞するのもそこそこに、私はラボを見回して説明らしきものを探した。「一五〇〇円で登録できます」という文言に目を引かれたが、それは心臓音のことだった。意を決して、白衣を着たスタッフに訊ねた。

 ――「ささやきの森」に吊るす名前を、ここで登録できる、と書いてあったのですが。
 ――ええ、可能です。手数料がかかりますが。

 スタッフが口にした金額は、安くはなかった、が、旅行中の私の持ち合わせで賄えないほどではなかった。私はうなずいた。スタッフは柔和な表情で、カウンターの内側から取りだした注意事項の書類を私に手渡した。
 そこには、記入するのは相互に知っている人間の本名でなくてはならないこと、芸術作品として半永久的に残ること、などが書かれていた。読んでいるうちに、Tシャツを濡らした汗が冷え、背中がどんどんつめたくなるのを感じた。あなたは自分の本名を気に入っていなかった。本名だと偽って、愛称を書いてしまおうか、いや、そんなことよりも「半永久的」という言葉が私を強く怯えさせた。
 たとえば展示期間は一年で、一年たったらすべて廃棄されてしまう、という条件だったら、私はあなたの名前を書いたかもしれない。しなかったことだから、わからない。けれど「半永久的に残る」のは、怖ろしかった。あなたが望んでいようといまいと、もうあなたの望みに干渉することができない私には関係がない。あなたが望んでいたのは気楽に名前を呼びあえる関係をずっと続けることだったはずだ。私がそれを壊した。
 二度と呼ぶことのないあなたの名前を、アクリルのプレートに閉じこめ、遠い島の深い森に永久に残して、私は東京に帰る。
 感情の埋葬なんかじゃない。
 突然、夢から醒めたように我にかえった。これは呪いだ。

 東京に戻ってから、乃木坂の国立新美術館でボルタンスキーの回顧展を観た。豊島で観た二つの作品とは、ずいぶん印象が違った。
 スクリーンに映る真っ白な雪原で、無数の風鈴とアクリルのプレートが揺れていた。書かなかったあなたの名前を思った。私はまだ、何ひとつ、手放せていない。

(2019.09.15 ブンゲイファイトクラブ応募テキスト)

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