わたしのはなし⑤ ~番外編・リビアへ~
※2008年の滞在記です
リビアでOL生活
成り行きとはいえ、現地に行くことには勇気がいりました。
オーストラリアでの生活を終える頃、友人の紹介で海外の建設会社で働くことになりました。
リビア行きを両親に伝えたところ、「そんな話にのって拉致されるぞ」と怒鳴られました。そりゃそうですよね。。。
カミルはパキスタン生まれ、10代はイギリスのボーディングスクールで過ごし、大学はオーストラリアで修士を修め、オーストラリアの市民権を得ています。両親はカミルを知らないわけで、メディアなどに植え付けられたイスラム教徒のイメージ、レッテルがあります。
私は実際、カミルやパキスタン人の友人たちと交友してみて、彼らはやさしく、本当に教養のある紳士であり、日本人の男性よりよっぽど頼りになる存在でした。
カミルもおじさんの仕事を手伝うためリビアに行くことになり、カミルの恋人の友人Fも数週間だけ、私と一緒にリビアに行くことになり、決心がつきました。どうにもならなければ、日本に帰ればいいと開き直ったともいえます。
その時の私のリビアに対する知識は、イスラム教の国、社会主義国家、カダフィー大佐が統治している国、石油・ガスが採れてオイルマネーで繁栄している等、非常に少なく、私がリビアに行った年頃にやっと旅行本の「地球の歩き方」が出来たように記憶しています。
リビア入国
パース⇒クアラルンプール経由ドバイ⇒トリポリ(リビアの首都)の旅。
ドバイからリビアへ飛ぶ際、アクシデントがありその日に飛べず、空港のホテルに1泊して、翌日ドバイ⇒チュニス経由⇒トリポリ
パースを旅立ってから3日目、やっとの思いで到着しました。
リビアの空港に降り立った時、古い時代にタイムスリップしたかのような錯覚がありました。チカチカと点滅する蛍光灯。無機質な青く塗られた壁が、刑務所や収容施設のように感じて、とんでもないところに来てしまったと感じたことを覚えています。
実際に滞在して感じた印象は、日本の戦後ってこんな感じだったのではないかと思わせるような所で、欧米諸国の文化が入り混んでおらず、良い意味で、のどかで一家団欒を大切にしている古き良き風習が残る場所でした。
イスラム教の国でも、欧米化し近代的に開けたアラブ社会がありますが、
リビアはとても保守的な社会でした。昔ながらの生活、伝統を維持した社会で、女性が一人出歩くことは皆無、女性は結婚しなければ保護者なしでは出かけられないなど、かなり古風な風習が残る社会でした。
ある時会社の女の子に、「まる子」知っているか?と聞かれてびっくりしました。「ちびまる子ちゃん」を観ていて大好きだというのです。確かにあの一家団らんの様子とリビアの人たちの暮らしには共通する部分があるなと思いました。
リビアでの生活
リビアの首都トリポリは海沿いの都市で、市内の建物は一部のホテルや建物以外は古く、やっと高級な電化製品や海外のブディックなども普及し始めた頃でした。
街中、車が走り活気づいていました。車もひとつの高級品であり、TOYOTAが人気で日本の車がとても多く走っていました。私が日本人だというと、TOYOTA,イエーイと親指を立てて称賛されました。日本といえばTOYOTAが有名でした。
スーパーで売られている食料は新鮮で、海を隔ててイタリアからの輸入品もオリーブやパスタなど安価に手に入り、外国人向けにハムなど(イスラム教は豚NG)扱っていました。リビアの歴史を紐解くと、ローマ帝国時代に植民地であったり、近代イタリアの占領下だったことがあったので、パスタなどの食文化、遺跡、建物も多く残っています。地理的にはマルタ共和国が目と鼻の先です。
社会主義国家であるので、リビア人は生活に困ることなくのんびり暮らしている印象でした。大学進学率がかなり高く、会社の女の子たちはみな優秀で英語も話せる人が何人かいました。
自分一人で買い物にも行けず、色々な意味で不便でしたが、大変だったのは、会社で用意されたアパート(といってもかなり広い)は、空き家の状態で何もなく、ベッドマットレスがあるのみ。自分が難民になったような気分になりました。家具や家電製品、キッチン用品など設備を揃えるところから始まり、快適に生活できるまでかなり奮闘しました。しばらく本当にやっていけるのか呆然としていたのを覚えています。
私がお世話になった会社は、インドネシアに母体にある建設会社で、当時リビア政府からの要請で、住宅建設、砂漠地帯の水タンクの建設、農業事業等を同時に8つくらいのプロジェクトが進行していました。
イスラム教というつながりで、インドネシアだけでなく色んな国の人が携わる多国籍な会社でした。インドネシア人、パキスタン人、インド人、中国人、フィリピン人、アフリカ人、リビア人etc…
そんな中で日本人である私が、一体何の役に立つのか?と疑問でしたが、実はカミルは、リビアプロジェクトの幹部による汚職を暴き、立て直すために社長から依頼を受けてきたことが後で判明し、私はカミルの手伝いをして、経費精算の調査と文書の管理、物資調達やカミルの秘書的な役割を担いました。
カミルと現地秘書の優秀な女性たち以外は、英語が話せなかったので、片言のアラビア語と片言の英語でのやりとりをするような事態で、私の英語のレベルは確実に落ちていたと思います(笑)
事務用品など何か必要なものがあっても、インターネットでオーダーするなんてことは皆無です。すべてアナログです。書類棚がなかったので、ドライバーに頼んで自分で家具屋に行き、その場で車の荷台に積んで持ち帰る。そんな世界です(爆)
日本の事務用品などを頼める「アスクル」などのサービスは、本当に魔法のようだなって思いました。
そんなこんなで何とか生活しながら、リビア国内の観光もしました。
地中海沿岸の古代ローマ遺跡群・レプティス・マグナ、ムルズーク砂漠、サハラ砂漠交易の中心地だった旧都ガダメスなどに訪れました。
色々ありましたが、ラマダンも経験し、ラマダン中の約1か月は仕事はほぼすべてストップしてしまうため、イギリス、フランスへ行き休暇を過ごしました。
リビアから Libyan Airlines を利用してロンドンのヒースロー空港に飛びました。リビア国産の飛行機です。British Airways もあったのですが、満席でチケットが取れなかったのと、Libyan Airlines は格安だったのです。
落ちるのではないかとドキドキしましたが、女は度胸だなと思い乗り込みました。ラマダン中でしたが、イスラム教徒ではない私には普通に機内食も出ました。
そして、飛行機の高度が上がり、、、
あんなに機内が寒いと感じたことはありませんでした。予備の毛布ももらっても寒くて寒くて。本当にびっくりです。飛行機の防寒?などができていないのだなと思いました。無事、約4時間のフライトを終えイギリスに到着しました。
休暇を終え、リビアに戻り、またタイムスリップした感覚を味わいました。
1年滞在する予定でいたのですが、欧米の文明に触れて目が覚めたのか?!独身の女性が生活するにはやはり色々と不便で、仕事といっても物事が全然進んでいかない日々に疲れ、リビア滞在を切り上げて、日本に帰国しました。
リビアでの日々は、毎日色々なことが起こり、1年未満と短い滞在でしたが刺激的な体験でした。帰ってからすぐ忘れないようにと、Wordに100枚くらいリビア滞在記を書き残していました。またいつかまとめ直してみたいです。
帰国後
日本に帰国した頃、ちょうどリーマンショックが起きた後でした。(2008年)
そして私が滞在した数年後に、「アラブの春」と呼ばれる民主化運動が起き、リビアは無法地帯となりました。私がリビアを訪れた時期は、カダフィー大佐による統治でトリポリは安全で治安も守られていましたし、人々は平和に生活していました。トリポリ以外の場所では、外国人の安全は保障できないといった状態だったように記憶しています。
リビア人というのは、そのほとんどがアラブ人で、その他砂漠の民であるベルベル族、トゥアレグ族などの多数の部族が暮らしている部族国家で、その一癖も二癖もある部族をまとめ、ひとつの国として治めていたことは、ある意味奇跡だったのかもしれません。
会社で一緒だった人たちが「アラブの春」後、一体どうなったかはわかりません。色々教えてもらい、仲良くしてもらっていた姉妹は、エジプトの親せきの所へ逃げ、その後いい縁談が結ばれ、幸せに暮らしているのをSNSで知りホッとしました。
社会主義国だったリビアの人たちは豊かに安心して暮らしているように見えました。一方で、仕事をきちんと行っていたのは外国人か外国籍のイスラム教徒だけ。
生粋の?リビア人からは、当時私は日に焼けていてフィリピン人に間違われていたのですが、よく人種差別を受けました。日本人だとわかると手のひらを返すように態度が変わったり(日本人は尊敬されていました)。
労働は自分たちの仕事じゃないといったようなねじ曲がった優越感、欧米から差別を受けていると抗議している裏で、リビア人以外を差別している偏見。その矛盾を至る所で感じましたし、生活が守られているからこそ、怠惰になるという人間性の低さの露呈。「インシャアッラー」(神のご加護があれば)と宗教の教えを都合のいいように使って、仕事をしないという場面を何度も目にしました。
銀行、郵便局、公共のものであればあるほど充てにならず、役人に対しては何をするにも賄賂が必要といった社会でした。
その社会の在り方が果たして良いのかどうか、民主化したことで治安が悪くなり無法地帯になったことが良いのかどうか、本当に何がいいのかはわかりません。
己れを外から見ること
オーストラリア滞在時、スペリング(書くこと)ができないオージー男性に出会い本当にびっくりしました。田舎に行けば行くほど識字率は低いと聞きました。
またリビアという異なる社会の国の在り方をみて、日本は民主主義だけれども、ある意味社会主義国家に近い状態を達成しているのだと感じました。
世界の中でも貧富の差が著しく少ない(最近は格差が広がっているかもしれませんが)、識字率や義務教育水準の高さ。飢えることなく暮らしていること。そういったことが、世界の当たり前ではないのだと実感しました。
海外に出るから、自分が見えるとはよく言いますが、本当に外から日本人であることを眺めてみて、これほどの人たちは世界中どこにもいないと思いました。
日本人という人種の凄さ、人を思いやることのできる精神性の高さ、周りと協調しながらも発展してきた強さ、勤勉さ、自然や他者を敬う心、数え上げたらきりがないほど、世界秩序には日本人が必要だと痛感しています。
リビアでの滞在を振り返ってみて、そんなことを感じました。
これからの日本人
2024年現在、円安が進み、世界中の人々が日本の地をを訪れています。私は今このタイミングで起きていることが面白なと感じています。
円安という日本国バーゲンセールが始まり、これまで日本を訪れることができなかった人たちが大勢、来れるようになっているということ。
日本という土地は特別です。国土自体が神聖で、その神聖さを失わずに先祖から現代に引き継がれているということ。そんな国は他にありません。
どの聖地に行っても、きちんとエネルギーが生きています。海外の古代の遺跡に行ってもそこはもうただの建造物であり、何も感じないことが多いのではないかと思います。土地そのものに霊力が満ちているのが、日本という国です。
そしてそこに生きる日本人もどんどん目覚めていくことが求められていますが、活性化された土地に生きていたら目覚めないはずがないわけですよね。
その土地のエネルギーに触れるには、インターネットや動画では受け取りきれませんから、やはりその場所に身を置くことが大切です。
今日本に来ている外国人の方は、日本という土地からエネルギーチャージをして、日本人と触れ合い、日本の食べ物を食べ、日本のスピリットを吸収されているのだと思います。
日本人として生まれてくることは宝くじに当たるようなものです。数に限りがありますからね。今、日本人として生まれ、この土地に生きていることは相当ラッキーなことであり、そのシード権を勝ち取ってきた魂であるともいえます。
日本に訪れている方が、また私たち日本人も、人類の本質に、調和の心にかえり、内なる調和とつながれることを願っています。
長くなりましたが、お読みいただきありがとうございました。
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