見出し画像

自由の概念が覆された話

皆さんは、クリスチャニアというデンマークの開放自治区をご存知だろうか?
コペンハーゲン市内のど真ん中ある、デンマーク政府との対立や闘争といった歴史がある場所だ。

ここには900人ほどのヒッピーと呼ばれる住んでおり、デンマーク政府から独立したルールが存在している。

盗みや暴力、銃やナイフの持ち込み、車の乗り入れ、動物を鎖につなぐこと等が禁止されていることにより治安は保たれているというが、私は初めてその土地に足を踏み入れたとき、コペンハーゲン市内の美しい景観とはあまりにも違う光景に驚愕したのである。



そこには、幻覚を見ているような色使いでビビッドにペイントされた建物や、立ち入った瞬間に嗅いだことのない強烈な匂いが蔓延していたのだ。


デンマークも薬物の使用は禁止されており、日本であれば裏の社会で取引されているものであるが、ここクリスチャニアではハードドラッグ以外の売買が普通のお店と並んで行われていたのだ。ここでの使用に関して、デンマーク政府は黙認しているという。

日本では大麻などを使用すると厳しく罰せられ、小学校の頃から薬物中毒の恐ろしさなども学校で教わるほど薬物に関する取締が厳しい。そのため、私自身その光景を目の当たりにしたとき思わず狼狽してしまった。

自由とは何か


私は、日本にいるときに感じた自由を振り返った。
中学から高校に上がったとき、制服や髪型の指定といった煩わしいルールがなくなったこと、放課後の選択肢が増えたこと、ひとり暮らしを始めたこと、自分の買い物をするようになったこと。
ほんの些細なことだが、それまであったルールから放たれたと感じた瞬間に自由と小さな幸せを感じていたのだ。
しかし、その自由というのはあくまで学校や国で定められた規律の範囲内に限られており、身の回りの環境がそれらに守らているという無意識の前提認識があったことに気づいた。それが日本にいるときに感じる「安心感や安全性」の担保であり、当たり前にあるものであると思っていた。そして、それにより平和が維持されていて、法律やルールのない世界での平和の実現は難しいのではないかとすら感じていた。

本来、民主主義においてルールというのはそこのコミュニティの総意によって合意形成されるものである。デンマーク政府との抗争を経て勝ち取った「自由」を、彼らは愛し暮らしている。

大麻が売買されることや、建物や町中への落書きが治安の悪さとして見なされる日本とは180度異なった形で、彼らは平和に暮らしていた。

この自治区が維持されるのも、クリスチャニアの理念に共感した人たちが暮らしやすいと感じるからだと思う。ここにはいわゆるリーダーはいない。民主主義の理念に基づき、区民全員で自分たちのルールをつくり、まもることで彼らの理想の生活を送っているのだ。

ここでの大麻使用に関しては政府が公式的に認可しているわけではないものの、彼らのようなヒッピーやこうした薬物を使用する人たちをただ法で押さえつけるのではなく、黙認するというカタチをとることで彼らの自由を尊重し、多様性とみなして受け入れる社会の寛容性があるからこそ、平和は構築されるのではないかと思った。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?