見ているようで、見ていない

人のはモノを
見ているようで見ていない






小学校で

朝の会
先生が前で話をしている時、

国語
漢字を書き取りをする時、
クラスのみんなで音読をする時、

算数
黒板の文字を、教科書の問題を
ノートに書き写す時、

体育
先生が、上手な子が前でお手本を見せている時、

給食
○時○分にいただきます、△分にごちそうさまと言われた時、

………………



たしかに
そのは、

前で話す先生を

漢字を

音読する文章を

黒板や教科書、ノートを

お手本の実演を

時計を


見て」いるのかもしれない。





だが仮に、

先生の話が理解できない

漢字が何度書いても覚えられない

音読で何度も同じ箇所で読み間違える

ノートに正確に書き写せない

実演されてもどっちの手から、足から着くのかちっとも分からない

いつまで経っても時計が読めない


のだとすれば、



そのはモノを
見て」いない。



より正確な漢字を使用するならば、



観て」いない のである。







外からの情報をキャッチする時、

人は

五感( 目 ・ 耳 ・ 鼻 ・ 口 ・ 肌 )で感じ、
それをに送り込む。



そしてそのうちの
かなりの割合、実に80%以上と言われているが、を、


頼っている。






だから
情報をキャッチするうえで

見て」いないのはまず論外である。





見て」いることは
当たり前の大前提であるとして



ただ目を向ける、
ただぼんやりと視界に捉える、

見て」いるだけではまだ足りない。




見ようと思うモノを
意識的に視界に捉えて、視線を集中させる、

観て」いる必要がある。







我が子を


先生の話が理解でき

漢字を書いたら覚えられ

音読で読み間違えずに読め

ノートに正確に書き写せ

実演されたらどっちの手から、足から着くのか分かり

時計が読める



そんな子にしたいと願うのならば、

子どもの「観る」力


これを育む必要がある。




子どもの「観る」力を育むためには?


まわりの大人、
まずは親が


お手本を見せてあげる

つまり、

子どもを「観て」あげること




子どもを「観て」話をして、
子どもを「観て」話を聞く

これに尽きる。





子どもを「観て」話をし、聞いていると
気が付くかもしれない


子どもがどれだけ
こちらを「観て」いないかという事実に




子どもにとって
最高最大の面白コンテンツであるはずの


そのに対してでさえ
観て」いないのだとしたら、


小学校での姿は…



授業参観に行かずとも
容易に想像できるはずである。

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