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イエスの母、マリアはいつ神の子と悟ったのだろうか。【カトリック信者なんです 11】

ルカによる福音書の第2章を読むと、


「さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。 イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。 祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。」

イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。

三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。

「両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」 すると、イエスは言われた。

「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」 しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。

それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。 イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」


これは、イエスが12歳のエピソードである。
ヨゼフとマリアは普通の子供として育てていたと言うことでしょう。

私はてっきり、生まれた途端からマリアはイエスは神の子として育てていたものと思い込んでいた。

違ったんですよね。
12歳の子が律法学者と論議出来ていたと言うことは驚くべきこと。
その行為を本人は「ん?何が?」くらいのリアクション。

ひとりで何やってんの?心配してるやん!と言っても、
「は?なんで?」と。

イエスはすでに神の子を自認しているが、親はまだ理解できていなかったように見える。

いったい、いつ心から私の子は本当に神の子だったんだ。と理解するのだろうか?
実は、十字架に貼り付けられても、3日目に復活しても、
「もう、うちの子は、こんな無茶なことしてまったくもう」って感じだったのだろうか?まさかね。

でも、イエスの12歳までは他の家族と同じように、子供として扱っていたのがわかる一節だと思います。
この時に「マジでうちの子は神の子やったんや!」と認識せざるを得なかったのでしょう。

聖書で結末を知ってる私にとっては、「遅っ!今頃かぃ」ってなりました。


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