"リベラルデモクラシー"について―岡田斗司夫氏と橘玲氏の対談より―

岡田斗司夫氏が橘玲氏との対談の感想がYouTubeにあげられていて、この動画自体は恐らく何年か前の内容である。
この動画は以前も見たことがあったが、改めて見直して極めて面白い内容であると感じた。

1 完成された政治形態としてのリベラルデモクラシー
"リベラルデモクラシー"とは、現代の民主主義のことであり、弱者に対して優しくする政治形態で、政治形態としては、完成形態であると橘玲氏は考える。

完成形態と言い切って良いのかは、私としては、躊躇を覚えなくはない。
ただ、①政治権力の権威の源泉を神に代わるものとして、人民に求めることをやめることは今更できないこと、②社会全体が豊かになり、再分配をしない訳にはいかなくなっていること等を考えると、最終形態だと断じることは可能でありそうかもしれない。


2 正解となる政策を導き出せない現代社会
いずれにしても、皆が等しく愚かであることやグローバル化の進展を前提に、最早最善な結果をもたらす政策を生み出し続けることは不可能である、橘氏は説かれる。
日本の社会の中だけでも、社会の複雑化が進んでいるのみならず、世界の国々と相互に関わりあっている中で、出された結果の原因を追究すること自体さえ、ビッグデータの分析等を通じて、考える位しかできない訳だ。
このような世界では、最善な結果を生み出す政策を予め特定することができない以上、とりあえず、可能な政策をやりまくって数打てば当たる式でやるしかない、という極めて鋭い指摘を橘氏はされているのだ。

私としては、全くこのとおりだと思う一方、最善な結果を生み出す政策が実はよく分からなかった、というのは、有史以来当てはまる真実のように思われる。
歴史の描写で~があったから、…が起きた、というのは、よくよく考えると、後付けで事実を繋げているだけに過ぎないことも少なくない。
更に進んで、~が起きたのは、…の背景があった、というような分析がありえたとしても、その当時を生きる人間には、複数の手段があり得た訳で、歴史に残る手段が選択されたのは、当人らの行動に伴う単なる偶然だと言ってしまってもあながち的外れとも言い難い。
更に更に踏み込んで言えば、後世の歴史解釈は、現代を生きる我々の為のー我々にとって都合の良く、時には、我々の願望そのものに等しいー解釈であると言っては、言い過ぎであろうか。


3 生贄を差し出すことによる政治での責任の取り方
話を対談の内容に戻すと、政治の失敗の結果は、歴史的には、文字通り責任者の首をすげ替えることでなされることがしばしばであった。
場合によっては、君主自体の首をすげ替えて、新しい君主を立てるなんてことも平然と行われきた。
このような首のすげ替えは、責任者を政策失敗責任の生贄にすることで、禊を済ませ、新たな政策責任者の下で新しい政策をやり直すものといえる。
しかしながら、このような流血を伴う文字通りの生贄システムというのは、社会運営のコストとして、あまりに高過ぎるだろう。
他方、現代の独裁者が頑なに政権を手放さないのは、この生贄システムにより、長年のツケを自らの命で支払わねばならないからである。
円滑な政権運営の為には、せいぜい選挙で落ちてただの一般市民に戻るだけであるリベラルデモクラシーは、橘氏の御主張のとおり、人類史の妥協の産物として悪くない制度ということができよう。

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