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逃げるは恥でも何でもねぇ ー 同棲解消記録 『色恋を持たない多崎ありゅーと、彼の巡礼の年』

私は結構、真面目寄りの人間です。

誰もいない時の赤信号も、何だかよくわからない校則も、コロナ禍の自粛要請も、基本的には守るタイプだったし、駅の黄色い線の外側は歩かないようにしているし、ジムでは使用した器具にアルコールスプレーをかける。

これまでの人生の中でも、自身のパーソナリティを表す評価としては「真面目だよね」と言われることと「根は真面目だよね」と言われることが殆ど。
花と茎の部分の見え方に若干ブレがあることは気になるものの、どうやら根本的に真面目の血が流れていることは他者から見ても確かなようだし、そうだよなぁという自覚もある。

というわけで、真面目な亜流くんは、今回の同棲解消の件についても
人生の中でも稀有な事象であり、1人のひとが自分から去ってしまったという惨事なのだし、しっかりと向き合って考えて何かを得なけ「ればならない」、と考え、
とことん向き合うことを決め込んだわけです。


早いもので、かれこれ別れから半年。
頭を整理するためにわざわざ文章に起こし、
会う人に対する状況説明の手間を省く意味でも、助けを乞う意味でも、自分のプライベートSNSで細々発信もし、
ありがたくも見てくれた方からの少なからない「おいおいこんなん公開して大丈夫か」的な苦笑い的リアクションはいい意味で見て見ぬふりをし、
ここまで続けてきたわけだが、

半年経ってみて辿り着いた一定の結論、
(や、結論というと完全に終着してしまう感があるのでなんか違う。ピリオドが打たれるのはもっともっと先なのだと思うし、この件については「モーニング娘。」ではなく「藤岡弘、」でありたい。   んん?)
それが今回のタイトルなのだから、試みの意図と帰結が綺麗すぎるほどに逆説になっていて、なんかもう笑けてきてしまう。


「恋愛の傷を恋愛で埋める」という指針への反論と腹落ち

別れた当初、特に男性の友達に多く言われたのが
「次の女性に行こう!」「恋愛の傷は恋愛で埋めよう!」という指針。

今だから言えることですが、真面目な亜流くんは、正直この向き合い方には全く納得できず、非常に軽薄なもののようにさえ受け止めていた。
目下起きた大きな問題から目を逸らす行為に思えたし、
次に行ったとしても相手の女性の立ち位置は100そうであるとは言わないまでも「穴埋めの人」になりかねない、そういった意味でも自己の救済のことしか考えていない、相手に対しとても失礼な振舞いに感じたため、
「そうだよな~!次いっくかぁあ~!」的なリアクションは取りつつも全く自分の行動指針に採用していなかった。

しかし、こん詰めて向き合う日々のなかで、この「向き合う」ことってなんだかいい帰結に向かえていないのでは?という思いはどんどん強くなっていく。
文章に書くと頭は整理されるが、一方で単純に気分は沈むし後悔は溢れるし自分を責めてしまうし、何だかいい作用がないなという実感は回を追うごとに強まっていく。
なるべく絶望下の幸福とか前を見られる事象とかを取り上げてみるのだが、何だか虚しさが常に伴っていたように思う。
こればかりは感覚なので何とも表現しにくいのだが、「救われていない」感覚?「救われる方向に向かっていない」感覚?というのが近いかなぁ。

実際、この半年で自身が書いた文章を改めて見返すと、「私は大丈夫!」「私は1人じゃない!」的な叫びが、引き攣った強がりな笑みから溢れる着地どころののない叫びが、文章の裏から聞こえてくるように感じる。(向き合うぞ!とぶち上げてしまったこの企画を走らせる中で、その叫びを配合しないと自身を保ちきれなかったのかもしれない。)あぁあ恥ずかしい。


「人生の」無駄です

さきの「次の女性に行こう!」「恋愛の傷は恋愛で埋めよう!」という指針を示してくれた男友達と、たまたまではあるがここ最近で立て続けに飲んだ。

彼らの当時の言葉の意味がなんとなく腹に落ちつつあったので、この件を(当時は本当は「軽薄だ」なんて思ってしまっていたよごめんなさい、ということも添えて)改めて話題にしたところ、
2人に共通していたのは、彼らも過去に大きな失恋をしており、かつ向き合う時間を経た(意図的に設けていたのかは別として)経験があったこと。

彼らの言葉は、「向き合った時間はそれはそれで全く意義がない時間だったとは言わないものの、総じて功を奏しなかった時間だった」、という実体験を経ての言葉だった。

「次行こうぜ!」っていう言葉は会話上の印象としてやっぱり軽く響いてしまう感も否めないものの、もらったタイミングでこの言葉の裏をもっと掘り下げなかった自身を憂いた。
一方で、当時は掘り下げたところで腹落ちはしなかっただろうな、「今」聞いてこそ腹落ちするそれだな、と、何だか自身のここまでの歩みを確認できた気もする。


「後で考えると、あの時の色々悶々と考えた時間って、極端な話、人生の無駄でしたねぇ」という言葉。

時間の無駄、ではない。「人生の」無駄なのだという表現がとても印象的だった。

考えたところで別れという事実がどうこうなるものでもない。相手ありきの事象なので、1人で考えたって「改善」につながるものでもない。向き合うことで得られるものがないとは言わない、でもそれはクリティカルなものにはきっとならない。悶々とすることによる損失が、それをはるかに勝る。
彼らとの議論の中で、それが腹に落ち切っている彼らと、その一歩手前だった私が話し込んだところで、このような感じにまとまった。


「ね、だから次行きましょ?」


まとめ

この記事の話って、
人によっては、人生の早い段階でとっくに腹落ちを経ている類のものなんだろうなぁと(まさに彼らの説得力ある「次行こうぜ!」は、とうの昔に腹落ちしている主体からの言葉)。なぁに学生みたいなこと言ってるのさ、という類のものになるのだろうなぁと。
少し自分の人生経験の薄さ?にも思いが至って何だか恥ずかしくもなったが、ともあれ痛みから学べたのは事実ですし、真髄を気づかせてくれた彼らにも感謝です。

真面目であることって、人間像としても行動指針としても理想解なように思ってきたが
今回のように、真面目に真正面から向き合ってもどうしようもない類の問題も人生にはあって、逃げる=いい意味でしなやなにいなす、という力も必要なのだなと(ここにきてなお、「放棄しきってしまう」というのは違う、と思ってしまう私は、やはり「真面目」の球根からはえているのだなと思いつつ…)、ばか真面目に向き合って悶々とした結果、「頭では分かる」の領域から、「腹落ち」、にまで至れました。

しなやかにいなす、とは具体的にどうすること?というのはまだ朧げにしか掴めていないものの、そういう向き合い方を選び取るべき事象があるということが「腹落ち」したのは、今回の件による私の成長なのかもしれません。


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