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おわるからきっとはじまる

みなさま、初夏の陽気にお部屋のなかはちょっぴりむせかえるような暑さも感じられるような気がしていますが、いかがお過ごしでしょうか。

わたしはいま、檸檬をスライスにしたソーダ水をクウと喉をあげて飲みほしてみたところです。

ところで、インスタグラムには字数制限があることを、みなさんはご存じでしょうか。なんと、キャプション部分に書くことがゆるされているのは、2200字なのだそうです。

いやはや、うっかりしておりました。(トホホ)

今日は、これまでたくさんのひとりひとりの存在に支えていただいたお蔭で、自身取り組んでこられたアートプロジェクトと、これまで7年間、地元福岡の美術の場で取り組ませていただいたアーティスト活動に終止符を打つこてを決めたこともあって、そのふたつをはじめとするおおきなおおきな感謝の気持ちを、綴りたいと思います。

色々な思いや、淋しさは、もちろん全然ないといったらウソになるけれど、顔をあげて、まっすぐ前を向いて、決めることができたと自分なりには想えているので、そのお祝いのしるしとして、読物というよりかはもっと至極私的なお手紙のようなものとして、このノートを記してみようと思います。

こんにちは。

今日は、みなさんへ、おしらせと、ご挨拶があります。

これまでひとりひとりの方の支えと励ましのお蔭で、取り組ませていただいていたアートプロジェクト『マツリウミスク/Matsuriumisk』のプロジェクト期間を、昨日、5月23日(土)をもって終了いたしましたのでおしらせいたします。
また、同時に、本日をもって、美術の場でのアーティストとしての活動を終えることにいたしました。

いつもそっと見守り、必要なときには手をさしのべ、自身至らない点にも寛容なやさしさと、こころで向き合い、智恵を授けてくださったひとりひとりの方へ、マツリウミスクについてのご報告が事後のかたちとなりますこと、
また、アーティスト活動についても、直接お伺いするより先に、この場をお借りしてのご挨拶となりますことを心よりお詫び申し上げます。

そして何よりも、みなさんおひとりおひとりに出会わせていただけたこと、つながりを頂き、関わりを与えて頂いたことに、心から、感謝しています。

マツリウミスクをはじめたきっかけは、「いきている」そのものに好きなことを、それを好きなひとが安心して続けられる環境があたりまえにある日常をつくっていきたいというつよい思いでした。

それを実現するためには、それぞれが好きなことを認め合って、応援し合って、観るひと、観せるひと、分野、世代、年代、地域や国籍、色々な境界を浸透するように関わり合って、相手も同じ人間なんだと知ることが大事だと考えました。

関わり合いから生まれるあたらしい発見、感覚を、いまのこの時代の同じ瞬間、同じ地球にくらしているただの人間として、楽しみを分かち合う体験が、いつもの日常に戻ったとき、例えば駅の構内で見知らぬひととすれ違うとき、会社のオフィスでコーヒーを飲むとき、スーパーマーケットで野菜を手にしたとき、そのモノの向こう側にいるひとを存在を想像しながら、相手と自分どちらの歓びも想い合えるような「こころ」につながるのではないかと考えました。

それができれば、分野、業界、職業、肩書きによらず、ひとりのひとがよりよく幸せにいきられるよう、みんながそれぞれに願い、応援し合える。そんな世の中になれば素晴らしいに決まってる。みんなで笑い合うる。

本気でそう想いました。

ただ、ひとと関わり合うことは、違いと向き合うことでもあり、それは自己に向き合うことでもあるので、ときにそれは私にとってこわくて、くるしくて、重たくて、めんどうくさいことのように感じてしまうこともこれまでにはありました。

それでも2014年1月に東京から写真を辞めて福岡へ戻り、今日までの7年間は、直接会えても、会えなくても、いつもやさしく向き合ってくださるあたたかなひとたちがいてくれました。

そのお蔭でいま、ひとと関わり合うことの素晴らしさを本当の意味で知ることができたように感じています。

ひととの違いを感じてしまうことに息苦しさのあった私が、ひとはみんな違うのがあたりまえに自然で、だから自分もひとと違っていいし、相手だって自分と違っていい。

違うことは、より深く自己を知る手がかりにもなるし、まだ見たこともない自己の発見につながる手がかりにもなる。
それを贈ってくれるのは、ほかでもい、ひとなんだということにも気づかせてもらいました。
それが腑に落ちたとき、なんだかこころがとても軽くなった気がしました。

この6年間をみなさんひとりひとりに気付かせていただくなかで、最後の最後の部分に気付かせてくれたのは、
サカナクションというバンドの音楽と、その音楽をつくるひと、それを支えるひとが共にあるチームサカナクションのひとりひとりの存在でした。

彼らがチームとしてうみだす音楽や、取り組んでいること、動きをみつめていると、いままでずっと想ってきた原点の先にあるまだみたことのない景色をつくろうとしているひとたちがいるような気がして、こころが震えたし、驚きました。

その情熱は、画面やラジオの向こう側からでも、ちゃんと届けられるし、時間も場所も越えて受け取ることだってできるのだと、はじめての衝撃と共に教えてくれたひとたちでした。

音楽業界はもちろん、業界の外側の世界にも意識的に開いていようとする姿勢は、私の視界をグーンと広げてくれたような気がしています。

もしまだ聴いたことのない方がいらしたら、よかったらぜひ聴いて、観てみてほしいです。

活動もとても興味深いものばかりで、チームの行動に対して観る側のひとが投げ銭のように支援を行うしくみなんかはとても画期的で、素晴らしいと感じます。

観せる側と観る側の関係であっても、おなじ人間として、両者が主体性を持って画面の向こう側の人間を知ろうとするとき、育まれるこころの結び付きは、どんなときもあたたかく、やさしく、ひとを支えてくれるのだと感じさせてくれます。
それは、わたしにとって家族みたいな感覚にも思えます。


ひととの分断がより明らかになったコロナ禍の時代において、100%の理解までには至らなくても、お互いの考えや思いを知ろうと努力をすることは、これからひとりひとりが生きる歓びに素直に生きられる世界をつくりはじめるためのチャンスのときではないかと感じています。

それは、体力や精神を使ってつかれてしまうことかもあるかもしれないけれど、時代にある色々な物事、あらゆる社会の側面をみつめるうえではとても重要なことだと感じます。


マツリウミスクの話になりますが、

2015年の「根っこは何処へやく」

2016年「下線部のこたえを求めよ」

2017年「宇都亜紗子展」

これらの展覧会とイベントの開催にあたり、企画、事前の情報提供、リリース、チラシのデザイン、印刷、広報、会場準備、作品設置、設備、会場運営、物販、当日イベント進行、本番、撤収まで、

すべてにおいてひとりではなにもできなかった私を、先輩、後輩、同世代のたいせつな仲間や、友人、ひとりひとりの尊敬するひとたちが気がけてくださり、たくさん相談にのってくれたし、面白がってくれて、助けてくれました。
本当に有難う。
有難うございます。

3年の休止期間中には、形を変えできることを模索するなかで、いつも協力を惜しむことなくあたたかく見守り、励まし、声をかけてくれるひとたちの存在がありました。

みなさんのお蔭で、このプロジェクトへの意志を6年間保ち続けられたと思っています。

そして、私の活動にはなるべくふれることなく、必要なときには助けを与えてくれた父と、何か言いたいこともあるだろうけれど、それでもすこし離れたところにいてくれた母、どうせ言ってもやるんだろうからと遠くで見守ってくれる兄、家族に、こころから感謝しています。

たくさんの愛にめぐまれて、いまあるのはただみなさんひとりひとりへの感謝のこころです。

マツリウミスクとしての取り組み、私の美術という名を掲げての活動はこれで終わりますが、美術や音楽をはじめ、芸術や伝統文化を愛するものとして、いまいちど原点に立ち還って、これからまたあたらしい道を歩きはじめたい。そう思っています。

みなさんひとりひとりと出会わせていただけて、感謝しています。

こころから、有難うございました。

こんな私ですが、これからも、よろしくお願いいたします。

溢れる感謝に想いの丈が長文となりましたこと、お許しくだされば幸いです。

みなさまひとりひとりにとっての、ちいさな幸せをいつもどこにいても、こころから想っています。


辻川 綾子

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