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私が絵を描く理由2

「探求としての創作」

 私は絵を描く理由を最初、自身の承認欲求のためであると考えた。それは考えとしては一見わかりやすく合理的だった。しかしそれは私の絵に対する全ての姿勢を証明してはいなかった。つまりは事実の一部分だった。
 承認欲求は私が絵を描く前の動機と絵を描いた後の発表の動機を部分的に説明した。だが私が正に絵を描いている時の興奮については口をつぐむのだった。制作中の興奮は、私が発表の未来を見据えた故の興奮ではないことは、私が絵を描いている時にただ対象についてのみ思考しているがために明らかだった。
 そこで以下の目的に私は気がついたのである。私は探しているのだ。「自分が見たいもの」を探している。
 私がなぜ去年から絵を描くことに野心的でいられるのか、そして私は何のために絵を描くのか。それは私自身が、私が理想とする世界を見たいと希うからである。そしてその世界は私個人が理想とするが故に、他ならぬ私が創り上げる他にないのだ。
 遅くも大学二年頃から美術館や博物館に足を運ぶようになった。その時あらゆる名作を見て、感動し、ダメ出しをし、敬服もした。けれど「私の」理想は存在しなかった。私が最も求めている何かは巨匠たちの作品には眠っていないようだった。
 とはいえどれも私には到底描くことができないようなもの、全て私には描き得ないものだったことは間違いない。それらは高尚で、容易な弱点を持たず、隙がない。それは丁寧な描き込みや厚塗りの物量に誤魔化されておらず、ただ平面から無駄を搾り取った一枚の澄んだ空気だった。
 それでも私の絵ではない。私が求めているものは違うと、それでも私は想っている。だから私は描く。自分の手が稚拙と理解しながら、しかし非合理な慢心を伴いながら、鉛筆や筆や指を動かして、さも巨匠の芸術家気取りで描いてみる。私が描きたいものがそこには目指されていて、それは私が美術館では目にすることができなかったもの、けれども数々の巨匠の作品、私が感動したものから影響を受けたものである。
 私は絵を描くことによって「自分が見たいもの」の探求をしているのであり、自分のための発明をすることを試みているのだ。
 科学的発想はしばしば人と重複してそのオリジナリティを失うけれども、芸術における発明は時代の変化、環境の変化に則しており、至極個人的体験に根差しているが故に、本当は各々が各々のために発明すべき財である。
 しかし例えば私には音楽の才能はない。だから音楽は創らない代わりに自分が創るべきであったものに近しい音楽を聴く。だから私は良いと思った音楽には不思議と「共感」する。それはその調べに触れる前から私の中にその原形が宿っていたからである。
 けれど私はその原型から「共感」し得るような音楽は作れなかった。だから他者の音にそれを求めた。それは食を通した生命のサイクルに似ている。ただ異なるのはそれが略奪の関係ではなくて照らされ受けとられる光であることである。
 だが絵画なら、絵画なら私は私のためのものを創れるかもしれない。そう思えるのは私が美術館を見て、画集を見て、SNSや映画やファッション雑誌や街の住宅を見て、それでも何かが足りないと思え、そして一方でそれらのものから強い魅力を感じるからなのだ。
 こう結論づけてようやく私は合点がいったように思う。「私がなぜ絵を描くのか」その答えは他ならぬ私のためで、他人のためでなど決してなかった。もし私が描きたいと思ったものがもう既に完全に誰かに描かれていたなら、その時こそ私は絵を描く意味を失うだろう。だが本当の限界は分断された個人の経験の方であって、あとはただ私の技術力と構想力の問題である。
 私が知覚し、知覚したものから不足と魅力を感じる限り、私の「絵を描く」という探求は続くのだろう。

2021.1.9.5:04

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