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茗荷と。

——茗荷を茗荷で包む。

ただそれだけのことをやってみた。
やってみたら、茗荷の美しく艶やかな葉っぱは、このために存在したのかなと思えてくる不思議。

「ない」は最大の発明とはいうが、ビニール袋や新聞紙などを持っていくのをうっかり忘れた時こそ、「野草と。」は発動する。

茗荷を持ち帰るときは茗荷の葉っぱでお願いします。

発見してしまえば、なんてことないのだが、こんなシンプルなことに気がつくのに驚くほど時間がかかってしまったではないか!目って本当に節穴だなとこういう時に思う。

文明を否定はしない。が、しかし、便利な文明によって、身近なものが全く見えていない事態が大いにあることへの自覚はしたい。

この自覚を真面目に突き詰めると、人間が諸悪の根源のように感じられてくるものだ。私も10代20代の頃は、そのような冥く重い考え方をぐるぐるしていたかもしれない。だが、思い詰めるのは苦しいし辛い。だから、今はあまり真面目に考えず、ゲームでお宝を発見したかのような感覚で、楽しめば良いと思っている。そういえば、今年、新たに畑に加わったメンバーは、「茗荷って土の中から生えてくるものだと初めて知った!」と感動していて、良かったねと微笑ましく思ったものだ。

今日も、ちょうど畑仲間がいたので茗荷の葉の包みを見せたら、「ああ、すごい!トトロの世界みたい」と言われた。野菜作りの得意な人が、自然との付き合い方に関しては未熟ということは大いにあるのだ。

ところで、「茗荷は野草なのか?」という声が聞こえてきそうだが、私の中では野草の部類に入っている。畑を借り始めたときから既にいらして、堆肥置き場っぽくしていたところの土が良かったからか勝手に増えてくれて、、、と、何の世話もしていないからだ。かつては誰かが植えたものかもしれないのだが、放置しすぎると、今度は生えすぎて困るかもしれず、それを防ぐために手を入れることはあるだろう、というものが野草であるとして良いのではないだろうか。

包みの全貌。結んで留めたりができなかったので、端を下にして重さで固定するとこぼれない。

今、この葉っぱは、洗われて、台所の椅子の背もたれに干されて、しなっと垂れ下がっている。裂けば紐になりそう。

これを書きながらチラ見していたら、もう一度ラップ代わりにもなりそうだと気がついて、夕飯の残り物に被せてみた。でも、もともとラップの代わりにお皿を被せていて、葉っぱの上からまたお皿で押さえるという形になり、あまり変わり映えがない。余計なお世話感が出てしまった。何事も実験、実践あるのみ。

もうそろそろ、茗荷の季節も終わってしまうので、こうした触れ合いを大切にしたいと思う。

奇しくも十五夜の夜。
満月に茗荷の味噌汁を啜る、などと言うと、なんだか侘び寂びの境地という感じもしてきた。爽やかな辛味や苦味のある茗荷だからか、なぜか着流しのおしゃれなおじさんが、お椀を持っている姿が脳裏に浮かんだりもして、ちょっと楽しい夜だ。

…つづく










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