見出し画像

人生をより楽しくて自由なゲームへシフトする為の"生きたメタ視点"と考え方



このような記事が世の中には無数に存在しています。なぜかと言うと、全ての人は自由を求めているからです。

そして今の社会ではその自由がとても得づらくなってしまったから。禁止されるほどやりたくなる心理が働いて、誰もが自由を欲しくてたまりません。

しかし、自分にとっての自由とは何なのか?という事はあまり掘り下げられていないような気がします。

自由とは、「やりたいことをして、生きる」ということ。それを求めるのは「満たされている感覚」を感じる為だと言えます。

やりたいこと、ありますか?
やりたいこと、出来ていますか?

ここまでで何かが響く方には役に立てる記事だと思いますので、カラダとココロを長年研究実践してきた僕の視点を、順を追って伝えてゆきましょう。


まず現状を肯定しよう

今の自分の人生は、100点満点で採点すると何点くらいでしょうか?

点数が低い方は、他人と比較しがち。
点数が高い方は、自分の心や考えを大事にしている方だろうと思います。

退屈な毎日が変わってほしい。
嫌な仕事を早くやめたい。
もっと良い人間関係が欲しい。

そう思っていたとしても実は、あなたが"今やっていることが、一番したいこと"です。潜在意識の視点から見ると、そうなります。

なぜなら、いくらココロで嫌だと感じていたとしても、それと引き換えに得ているものが必ずあるからです。

例えば誰かとのつながりだったり、受け入れられている事実であったり、状況が大きく変化しないことへの安心感だったりします。


自分の変化と成長が怖い心理

人は変わりたい、成長したいと思いながらも、同じくらいの強さで変わりたくないという気持ちを持っています。

人の心身にはホメオスタシスという機構が働いていて、安定した状態を好む性質が備わっているため、例え好ましい変化や成長だったとしても、怖れが湧いてくるものだからです。

例えばあなたのココロが大きく成長した時、周りにいる人達の多くとの別れが訪れます。そうした変化を潜在的に予感して怖れてしまうのです。

エゴのやりたいと《本当のあなた》の"やりたい"は違う

エゴ(自我)から湧いてくる"やりたい"にはもっともらしい意味と目的意識がくっついているのが特徴です。

例えば世界を良くしたい、とか
誰かの為に、とか

とても壮大であったり、輝かしく、誰からも称賛されるような目的であるが、自己犠牲的であることは"エゴ発"だと言えます。

自分さえ良ければ良い、というのはわかりやすいエゴですが、対象が完全に自分以外であったり、特定の誰かに限定されている事も特徴です。

一方、本当の“わたし”から湧き上がる欲求は、意義があるとは限りません。一見とても小さくて下らない事だったり、唐突に叫びたくなるなど全く意味がわからない事もあります。

本当の“わたし”から湧き上がる欲求は、範囲は様々ですが、不足感から生まれるものではなく、安心感と幸福感に満ちたものです。


体験に経済を持ち込まないで

しかし、エゴと“わたし”どちらが良いということではありません。双方がバランスを取り合って人生は進んでゆくものだからです。

とにかく大切な事としては、物事を価値判断しないことです。

良い悪いと価値判断するのは、経済の考え方であって、お金に囚われた考えだからです。

自分の体験に、経済的価値をつけないで欲しいのです。


今の自分を肯定すると起こること

今の現状に満足していないとしても、そこから自分が得ていた物を識ることは、次へと進む為に必要不可欠なステップになります。

望まない体験だったとしても、
自分はそこから何を得ているのか?
どんな成長があっただろうか?
どのような自分に変わったのか?
もし、この体験が自分が望んだものであり、完璧であったとしたらどうだろう?

失ったという視点ではなく、得ているという視点で体験を再解釈することで、全てが客観的に見えてくるはずです。

この内側のプロセスがは自己理解になり、自分の心に納得を着け、未練なく次へと進むエネルギーとなるのです。

そして、先程も言ったように、物事を価値判断しないこと。

意味があるとか、無意味だったとかも同様です。

ただ、自分の好き嫌いは大切にしたら良いと思います。自分の好きな気持ち、嫌いな気持ちは肯定してあげるべきです。

それを無視してしまうと迷子になってしまいます。

否定的な解釈や気持ちは、原則的にエゴから湧いてくるものです。それに対して、現状を肯定することは、大きな自分と繋がることです。

あえて表現を変えて表現すると、「神と繋がること」と言っても良いかもしれません。

人生とは、感覚体験だ。

沢山お金があることが良いから、お金を持ちたい と言って実際にお金を所有し、色々な物を買ったとします。

その時に「お金やモノを所有した」という事が大事で凄いのだと思うかもしれませんが、実際はそれはサブであって「お金とモノを所有した体験」がメインです。

お気に入りのモノをゲットしたら、モノに付随してコトが生まれます。それにまつわるコミュニケーションが生まれます。

僕たちはモノの所有だけではなく、そこにも喜びを感じているはずです。それが無い、という場合は、おもちゃを買って満足してしまって遊んでいない、ということになってしまいますね。

ここで大切なポイントは、モノ(金含む)自体に価値は無いという事です。

ダイヤと石ころの違い

でも、より価値が高いモノが良いだろう、と思うかもしれませんので、価値について考えてみましょう。

例えば、あなたが下らないと思っているテレビ番組や、現実離れしていると感じるオカルトの話題でも、それにより学びを得たり、人生が救われている人も沢山存在します。

同様に、あなたが最高だと思う物事を下らない、気持ちがわからないと思う人も沢山存在するわけです。

つまりダイヤモンドも道端の石ころも、色と形が違うだけの同じようなものということになります。希少性が違うだろうという意見も、多いものより少ないものに価値がある、という価値観の上に成り立っている考えでしかありません。

地球上からダイヤモンドが無くなっても困る事はありませんが、酸素や炭素が消えてしまったらどうなるでしょうか?おそらく全てが消滅するだろうと思います。

体験に良いも悪いもない

そういう視点に立つと、体験は人それぞれに価値が違う、ということになります。体験はただの体験であって、そこに意味をつけているのはあなたのこれまでの人生の経緯と、身につけてきた感性です。

他者からしたら無価値になるかもしれませんが、当人にとって、人生の至上の宝物になります。

その体験と、体験者の感性(精神と肉体含めた)が在ってこそ、その人独自の価値が生まれます。当然、それを100%の精度で感じられるのは、体験したその人だけなのです。

でも、あなたの大切な人の体験だったのなら、あなたにとっても輝いて見える事でしょう。

だから体験とは、目の向け方、視点の持ち方によって、ゴミにもダイヤモンドにもなるということなのです。

自分の人生は100%肯定して良い

あなたの体験と同じ体験は誰一人としてできません

もし同じ体験を共にした仲間がいたとして、あなたと同じ感じ方は誰にも出来ません。その出来事や言葉から何を感じ、何を学び、どのように成長するかは100人100色です。

自分では気づきづらいですが、あなたの感性だからこそ、感じられている事が確実にあるのです。

そして、体験を否定的な視点で見るのではなく、肯定的な視点でみてゆくことです。

失ったモノや自分の至らなさばかりを意識するのではなく、その出来事から自分自身が得たられたものや、成長したことに意識が向くようになります。

そのようになると、出来事から喜びを見いだせるようになり、それが生きるエネルギーになってゆきます。


人生は自由自在な地球ゲーム

出来事の価値はそれぞれですし、正しいも悪いも無いとすると、結局のところ、誰もが好き勝手にやっているだけだと言えますよね。

実際そうなのです。

大多数の人が、誰もが自分が見ているのと同じ世界を見ていて、自分が「これは絶対だ」と思っている価値観で生きているのだろう─と思っています。そしてその範囲で自分が良いと思うことを言ったりやったりしているだけなんですから。

でもそれは「勘違い」としか言いようがありません。

実際は、それぞれが全く違う視点を生きており、異なった感性と価値観で生きているわけです。

Keyは《視点操作》

先ほど述べたとおり、人生の出来事は結局は「視点」で変わります。

不幸だと思えば不幸だし、幸福は全ての出来事の裏に隠された大きな河のように存在しています。

視点を操れるようになると、出来事をある意味コントロールしているような感覚になることも可能です。そして、実際に奇跡的な出来事を誰もが体験できるようになっています。(奇跡というかそれが当たり前のゲームのルールなのです)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?