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【社会歴史】江戸時代(化政文化):伊能忠敬

自己紹介

皆さん、こんにちは。私は伊能忠敬(いのうただたか)と申します。1745年に上総国(かずさのくに)山田郡小関村(現在の千葉県一宮町)で生まれました。50歳までは商人として過ごしましたが、その後、人生の大転換を遂げ、日本地図作成に全力を注ぐことになりました。

私の人生訓は「学ぶことに年齢は関係ない」ということです。50歳を過ぎてから天文学や測量術を学び始め、55歳で初めて測量旅行に出かけました。そして17年間で日本全国を歩き回り、精密な日本地図を完成させたのです。

若い皆さんに伝えたいのは、好奇心を持ち続けることの大切さです。私は常に新しいことを学ぶ姿勢を持ち続けました。そのおかげで、人生の後半で大きな成果を上げることができたのです。

皆さん、自分の可能性を信じてください。そして、今この瞬間から学び始めてください。きっと素晴らしい未来が待っていますよ。

なりきり解説

さて、今日は江戸時代後期の文化について、特に化政文化(かせいぶんか)について解説しましょう。この時代、私も測量旅行で日本中を歩き回っていましたから、まさに身をもって体験した時代です。

化政文化は、文化文政期(1804〜1830年)を中心とした江戸時代後期の文化のことを指します。この時期、町人(ちょうにん)を中心とした庶民文化が大いに発展しました。

まず、学問の分野では、国学蘭学が盛んになりました。国学は日本固有の文化や思想を研究する学問で、本居宣長(もとおりのりなが)が代表的な学者です。彼は古事記伝(こじきでん)という大著を著し、日本の古典を研究しました。

一方、蘭学はオランダを通じて西洋の科学や医学を学ぶ学問です。杉田玄白(すぎたげんぱく)らが解体新書を翻訳し、西洋医学の知識を日本に広めました。私も測量術を学ぶ際に蘭学の知識を大いに活用しました。

文学の分野では、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の「東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)」や曲亭馬琴(きょくていばきん)の「南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)」などの娯楽性の高い読み物が人気を集めました。

俳諧(はいかい)では、与謝蕪村(よさぶそん)や小林一茶(こばやしいっさ)が活躍しました。彼らの俳句は庶民の生活や自然の美しさを巧みに表現しています。

浮世絵(うきよえ)も大きく発展しました。喜多川歌麿(きたがわうたまろ)や葛飾北斎(かつしかほくさい)、安藤広重(あんどうひろしげ)らが素晴らしい作品を残しています。北斎の「富嶽三十六景」や広重の「東海道五十三次」は今でも多くの人々に愛されていますね。

教育の面では、庶民の子どもたちが通う寺子屋が増加しました。そこでは主に読み・書き・そろばんが教えられました。一方、武士の子弟のための藩校も各地に設立されました。

このように、化政文化の時代には、庶民の生活が豊かになり、様々な分野で文化が花開いたのです。私もこの時代に生きた一人として、その発展に少しでも貢献できたことを誇りに思います。

江戸時代(化政文化)にまつわる噂話

皆さん、測量旅行中に耳にした面白い噂話を聞いてみませんか?

ある日、私が江戸の町を歩いていると、ひそひそと話す声が聞こえてきました。なんでも、ある大名が西洋の望遠鏡を手に入れたそうです。その望遠鏡で月を覗いたところ、月面に兎(うさぎ)が餅(もち)をついている姿が見えたという噂です!もちろん、これは単なる噂話です。私も天文学を学びましたが、そんなことはあり得ません。

また、ある寺子屋の先生が、生徒たちに「そろばん」の代わりに「からくりそろばん」を使わせているという話も聞きました。このからくりそろばんは、玉を動かすと自動的に計算してくれるという代物だそうです。これもまた、あり得ない話ですね。

それから、江戸の町では「歩く浮世絵」なるものが出現したという噂も広まっていました。歩く姿そのものが美しい絵のような芸者さんのことを指すようです。これは誇張された表現でしょうが、浮世絵の影響力の大きさを物語っているかもしれません。

このような噂話は、当時の人々の想像力豊かさと、新しいものへの好奇心を表しているように思います。皆さんも、噂話に惑わされず、しっかりと自分の目で確かめる習慣をつけてくださいね。

練習問題と解説

それでは、化政文化について学んだことを確認するために、いくつか問題を出題しましょう。

(1)化政文化が栄えた時期はいつ頃でしょうか?





解答: 文化文政期(1804年〜1830年)を中心とした江戸時代後期

解説: 化政文化は、文化年間(1804〜1818年)と文政年間(1818〜1830年)を合わせた「文化文政期」を中心とした江戸時代後期の文化を指します。この時期、経済的にも文化的にも庶民の力が大きく成長しました。

(2)日本固有の文化や思想を研究する学問を何というでしょうか?





解答: 国学

解説: 国学は、日本の古典を研究し、日本固有の文化や思想を明らかにしようとする学問です。代表的な国学者には本居宣長がいます。彼は「古事記伝」という大著を著しました。

(3)オランダを通じて西洋の科学や医学を学ぶ学問を何というでしょうか?





解答: 蘭学

解説: 蘭学は、オランダ語を通じて西洋の科学や医学を学ぶ学問です。杉田玄白らが「解体新書」を翻訳し、西洋医学の知識を日本に広めました。この学問は、日本の近代化に大きな影響を与えました。

(4)「東海道中膝栗毛」を書いた作者は誰でしょうか?





解答: 十返舎一九(じっぺんしゃいっく)

解説: 「東海道中膝栗毛」は、十返舎一九が書いた滑稽(こっけい)本です。江戸から京都までの道中を描いた作品で、当時の庶民の生活や文化をユーモアたっぷりに描いています。

(5)「富嶽三十六景」を描いた浮世絵師は誰でしょうか?





解答: 葛飾北斎(かつしかほくさい)

解説: 「富嶽三十六景」は、葛飾北斎が描いた浮世絵シリーズです。富士山を様々な角度や状況で描いた作品群で、「神奈川沖浪裏」などの有名な絵も含まれています。北斎の代表作の一つです。

(6)庶民の子どもたちが通った教育機関を何というでしょうか?





解答: 寺子屋

解説: 寺子屋は、江戸時代に庶民の子どもたちが通った私塾(しじゅく)です。主に読み・書き・そろばんが教えられました。この教育制度により、江戸時代の日本は世界的に見ても高い識字率を誇っていました。

(7)武士の子弟のための教育機関を何というでしょうか?





解答: 藩校

解説: 藩校は、各藩が設立した武士の子弟のための学校です。ここでは主に儒学や武芸が教えられました。藩校の設立は、各藩の教育水準を高め、人材育成に貢献しました。

(8)「古事記伝」を著した国学者は誰でしょうか?





解答: 本居宣長(もとおりのりなが)

解説: 本居宣長は、江戸時代を代表する国学者です。彼の主著「古事記伝」は、「古事記」を詳細に研究・解説した大著で、44巻からなります。この著作は国学の発展に大きな影響を与えました。

(9)「解体新書」を翻訳した蘭学者は誰でしょうか?





解答: 杉田玄白(すぎたげんぱく)

解説: 杉田玄白は、「ターヘル・アナトミア」というオランダの解剖学書を日本語に翻訳し、「解体新書」として出版しました。これは日本で初めての本格的な西洋医学書の翻訳で、蘭学発展の礎(いしずえ)となりました。

(10)江戸時代後期に活躍した俳人で、「やれ打つな蝿が手をすり足をする」という句を詠んだのは誰でしょうか?





解答: 小林一茶(こばやしいっさ)

解説: 小林一茶は、江戸時代後期の俳人で、庶民の生活や小さな生き物を温かい目線で詠んだ句で知られています。この句は、蝿(はえ)にも生きる価値があることを表現し、一茶の生き物への愛情が感じられる作品です。

よくある質問 (FAQ)

Q1: 化政文化の時代、庶民の生活はどのように変化しましたか?

A1: 化政文化の時代、庶民の生活は大きく向上しました。経済的な豊かさが増し、教育の機会も広がりました。寺子屋の普及により識字率が上がり、娯楽としての文学や芸術も発展しました。私が測量旅行で各地を回った際も、庶民の生活の変化を肌で感じましたよ。

Q2: 国学と蘭学は対立する学問だったのですか?

A2: 国学と蘭学は、一見すると対立するように見えますが、実際にはお互いに影響を与え合いました。国学は日本の伝統を重視し、蘭学は西洋の知識を取り入れようとしましたが、両者とも既存の学問体系に疑問を投げかけ、新しい知識を追求するという点で共通していたのです。

Q3: 浮世絵は海外でも人気があったそうですが、本当ですか?

A3: はい、その通りです。19世紀後半、日本の浮世絵が欧米に伝わると、多くの芸術家たちに影響を与えました。特に、印象派の画家たちは浮世絵の構図や色彩に強い影響を受けたと言われています。私の時代にはまだ知られていませんでしたが、後に日本文化の素晴らしさが世界に認められたことを誇りに思います。

Q4: 寺子屋では、どのような教科書が使われていたのですか?

A4: 寺子屋では、主に「往来物(おうらいもの)」と呼ばれる教科書が使われていました。これは、手紙の書き方や日常生活に必要な知識、道徳などを学ぶための本です。例えば、「庭訓往来」や「商売往来」などがよく使われていました。私も若い頃、こうした本で学んだ記憶がありますよ。

Q5: 化政文化の時代に、科学技術はどのように発展しましたか?

A5: 化政文化の時代、蘭学の影響により科学技術も大きく発展しました。医学では西洋医学の知識が広まり、天文学や測量技術も進歩しました。私自身、この時代の測量技術の発展のおかげで、精密な日本地図を作ることができたのです。また、からくり人形や精密な時計など、機械工学の分野でも進歩が見られました。この時代の科学技術の発展は、後の明治維新における近代化の基礎となったのです。


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