見出し画像

【社会歴史】江戸時代(外国船の接近と天保の改革):大塩平八郎

自己紹介

拙者、大塩平八郎と申す。江戸時代後期の大坂町奉行所与力として仕えた身でございます。しかし、民の苦しみを見過ごすことができず、天保7年(1837年)に大塩の乱を起こしたことで知られておりまする。

拙者の生涯は、学問と正義への追求に捧げられました。儒学を学び、陽明学に傾倒し、その教えを実践しようと努めました。「知行合一」、すなわち知識と行動を一致させることを信条としておりました。

民衆の窮状を目の当たりにし、為政者の無策に憤りを感じた拙者は、ついに決起いたしました。この行動は、結果として失敗に終わりましたが、後の世に大きな影響を与えたと自負しております。

若き学徒の皆に申し上げたい。学問は机上のものに留めず、実践することが肝要でござる。世の中の不正義に目を背けず、自らの信念に従って行動する勇気を持つことが大切じゃ。たとえ困難な状況に置かれても、諦めずに前を向いて進むのじゃ。

拙者の人生から学んでいただきたいのは、知識を得ることと、その知識を正しく使うことの大切さでござる。そして、他者の苦しみに寄り添い、社会をよりよくしようとする志を持ち続けることじゃ。

なりきり解説

さて、江戸時代後期の外国船の接近と天保の改革について、拙者が解説いたそう。

まず、外国船の接近についてじゃ。18世紀末から19世紀初頭にかけて、欧米諸国の船が日本近海に頻繁に現れるようになった。1792年には、ラクスマン率いるロシア使節が根室に来航し、通商を求めたのじゃ。これに対し、幕府は警戒を強めることになった。

1825年には、異国船打払令が出された。これは、日本近海に現れた外国船を無条件で攻撃し、追い払うという命令じゃ。しかし、この政策は外国との関係を悪化させる結果となってしまった。

この頃、一部の知識人たちは、海外の情勢に強い関心を持ち始めておった。渡辺崋山(わたなべかざん)や高野長英らは、西洋の科学技術や社会制度について研究を進めたのじゃ。しかし、幕府はこうした動きを危険視し、1839年には蛮社の獄が起こった。彼らは逮捕され、厳しい処罰を受けることになったのじゃ。

一方、国内では様々な問題が起きておった。農村では、工場制手工業が発達し、農民の中には副業として織物や紙すきなどに従事する者も増えていた。しかし、1833年から1839年にかけて、天保の飢饉が発生し、多くの民が苦しむことになったのじゃ。

拙者、大塩平八郎も、この飢饉による民衆の窮状を目の当たりにし、1837年に大塩の乱を起こしたのじゃ。しかし、この乱は鎮圧され、拙者も自刃することとなった。

この状況を受けて、幕府は改革の必要性を感じ、老中の水野忠邦が中心となって天保の改革を行ったのじゃ。この改革の主な内容は以下の通りじゃ:

  1. 倹約令の発布:贅沢(ぜいたく)を禁じ、質素倹約を奨励した。

  2. 人返し令:江戸に流入した地方出身者を故郷に帰らせた。

  3. 株仲間の解散:独占的な商業組織を解散させ、自由な商業活動を促進しようとした。

  4. 農村復興策:年貢の軽減や、農民の負債帳消しなどを行った。

しかし、この改革は十分な効果を上げることができず、水野忠邦は失脚することになったのじゃ。

この時期、外国船の接近と国内の混乱により、幕府の統治能力の限界が露呈し始めたのじゃ。これが後の幕末の動乱につながっていくことになるのじゃよ。

江戸時代(外国船の接近と天保の改革)にまつわる噂話

おや、最近町で面白い噂を耳にしたぞ。どうやら、外国船が日本近海にやってきて大騒ぎになっているらしい。

「おい、聞いたか?赤毛の外国人が乗った大きな船が見えたそうじゃ。」
「へぇ、そりゃあ驚いたな。どんな顔をしとるんじゃろ?」
「さあ、よく分からんが、鼻が高くて目が青いんじゃそうじゃ。」
「まるで天狗(てんぐ)みたいじゃな。ハハハ!」

そんな中、ある町人が言うには、
「わしゃ聞いたぞ。あの渡辺崋山って絵描きさんが、その外国人の絵を描いたんじゃと。」
「おや、それは見てみたいのう。」
「でも、お上がそんな絵を描くのを禁止しとるらしいぞ。」
「なんじゃと?絵を描くだけでお縄(なわ)かいな。世も末じゃ。」

そうこうしているうちに、また別の噂も聞こえてきたわい。
「おい、聞いたか?米の値段がまた上がったそうじゃ。」
「えっ、マジか?これ以上上がったら、うちの家計が大変じゃ。」
「そうじゃろうな。でも、お上が何か改革をするらしいぞ。」
「ほう、どんな改革じゃ?」
「さあ、よく分からんが、なんでも株仲間を解散させるとかなんとか。」
「へぇ、それで世の中良くなるんかいな。」

まあ、噂話は尽きんものじゃな。世の中、変わるもあれば変わらんもあるわい。

練習問題と解説

それでは、拙者が用意した問題に挑戦してみるがよい。

(1)1792年に根室に来航したロシア使節の名前は何か?





** 解答: **
ラクスマン

** 解説: **
ラクスマンは、1792年に根室に来航したロシア使節じゃ。彼の来航は、日本に対する外国の通商要求の始まりを示す重要な出来事じゃった。

(2)1825年に出された、外国船を無条件で攻撃し追い払う命令を何というか?





** 解答: **
異国船打払令

** 解説: **
異国船打払令は、外国船の接近に対する幕府の強硬な対応じゃ。しかし、この政策は外国との関係悪化を招くことになってしまったのじゃ。

(3)西洋の科学技術や社会制度について研究を進めた2人の知識人の名前を挙げよ。





** 解答: **
渡辺崋山、高野長英

** 解説: **
渡辺崋山高野長英は、江戸時代後期に西洋の知識を積極的に学んだ知識人じゃ。彼らの活動は幕府に危険視され、後に蛮社の獄で処罰されることになるのじゃ。

(4)1839年に起こった、西洋の知識を学ぶ知識人たちが処罰された事件を何というか?





** 解答: **
蛮社の獄

** 解説: **
蛮社の獄は、幕府が西洋の知識を学ぶ知識人たちを弾圧した事件じゃ。この事件は、幕府の閉鎖的な姿勢を示すものとなったのじゃ。

(5)1833年から1839年にかけて起こった大規模な飢饉を何というか?





** 解答: **
天保の飢饉

** 解説: **
天保の飢饉は、多くの民衆が飢えに苦しんだ大規模な飢饉じゃ。この飢饉が大塩の乱など、社会の不安定化の一因となったのじゃ。

(6)1837年に大阪で起こった大塩平八郎による民衆蜂起を何というか?





** 解答: **
大塩の乱

** 解説: **
大塩の乱は、拙者こと大塩平八郎が、民衆の窮状を救うために起こした蜂起じゃ。結果的には失敗に終わったが、幕府に改革の必要性を認識させる契機となったのじゃ。

(7)天保の改革を主導した老中の名前は?





** 解答: **
水野忠邦

** 解説: **
水野忠邦は、天保の改革を主導した老中じゃ。彼は様々な改革を試みたが、十分な効果を上げることができず、最終的に失脚することになったのじゃ。

(8)天保の改革で解散させられた、独占的な商業組織を何というか?





** 解答: **
株仲間

** 解説: **
株仲間は、特定の商品の取引を独占的に行う商人の組織じゃ。天保の改革では、これを解散させて自由な商業活動を促進しようとしたのじゃ。

(9)天保の改革で発布された、贅沢を禁じ質素倹約を奨励した法令を何というか?





** 解答: **
倹約令

** 解説: **
倹約令は、贅沢を禁じ質素倹約を奨励した法令じゃ。これは幕府財政の立て直しと、社会風紀の改善を目指したものじゃったのじゃ。

(10)天保の改革で、江戸に流入した地方出身者を故郷に帰らせた政策を何というか?





** 解答: **
人返し令

** 解説: **
人返し令は、江戸の人口増加を抑制し、地方の労働力確保を目的とした政策じゃ。しかし、この政策は多くの人々の生活に大きな影響を与えることになったのじゃ。

よくある質問 (FAQ)

Q1: なぜ幕府は外国船の接近に対して警戒したのですか?

A1: そりゃあ、長年続いた鎖国政策のためじゃ。幕府は外国の影響で国内が不安定になることを恐れておった。また、キリスト教の再流入も懸念しておったのじゃ。外国船の接近は、幕府の統治体制を脅かす存在と見なされたのじゃよ。

Q2: 大塩平八郎はなぜ乱を起こしたのですか?

A2: 拙者が乱を起こしたのは、民衆の窮状を救うためじゃ。天保の飢饉で多くの民が苦しんでいるのに、為政者たちが適切な対応をしないことに怒りを覚えたのじゃ。「知行合一」の教えに従い、自らの信念を行動に移したわけじゃよ。

Q3: 天保の改革は成功したのですか?

A3: 残念ながら、十分な成果を上げることはできなかったのじゃ。改革の内容が現実離れしていたり、既得権益を持つ者たちの反発が強かったりしたためじゃ。しかし、この改革の試みは、幕府の統治能力の限界を露呈させ、後の幕末の動乱につながる重要な出来事じゃったのじゃよ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?