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店主の暮らし日記⑬ちぐはぐの話

こんにちは!雑貨屋 あるくらし 店主の絢音です。
雑貨屋 あるくらし は、現在、店舗を持っていませんが、
イベント出店やオンラインストアからスタートした雑貨店です!
こちらのnoteでは、お店の歩みを記録中です!
(雑貨屋 あるくらし についてご興味のある方は、
マガジン「雑貨屋 あるくらし を開くまで」にまとめておりますので、
良ければそちらをご覧ください!)

梅雨入りして、じめじめとした湿度に身体が重たく感じる日々が続きますね。そんな雨が多い日々、今日は家で作業だ!と決め込むと、「外には一歩も出ないぞ。」と誓うように、着替えずに寝間着のまま作業をする事がしばしばあります。
私、自分の寝間着に無頓着なんです。どれくらい無頓着かというと、上はボーダー、下はストライプの柄を着たりします。(しかもちょっとヨレヨレ)ちょうどこのnoteを書き始めた日はまさに、「今日は家で作業だ!」と決め、ボーダー&ストライプでパソコンに向かっていました。
そしてふと鏡を見たとき、「すごい組み合わせやん!私!」と気づいて、ちょっとおかしくなります。
実家で暮らしていた時、祖母は、どんな日だって毎日早起きして身だしなみを整え、いつ見てもしゃんとしていて素敵。一方母は、予定が無かったら決まって寝間着のままのんびりと過ごしていました。
祖母に憧れつつ、母とのんびり過ごしていた私は、基本的に家では無頓着スタイルが標準で、「今日はスイッチを入れたい!」と思う日は、祖母の事がふわっと頭をよぎりながら、家の中でも「よしっ」と身だしなみを整える。そんな塩梅で暮らしています。

今回のテーマは、ちぐはぐの話

そうして、今回の記事を書き始めたボーダー&ストライプの私は、生活のこだわりやだらしのないような事について、その「区別」に対して、なんだか「厄介!」と感じる事があるなぁと、ふと思いました。

もうかなり着古し、ヨレッとしたボーダー&ストライプの寝間着。
なんともちぐはぐな恰好で暮らしています。

好きな雑貨をコツコツと集め、部屋をしつらい、料理が上手くなるようにいろいろなレシピに挑戦している私は、ボーダー&ストライプの寝間着で髪の毛もぼさぼさ。レンズが曇った眼鏡を気にせずかけ、パソコンの画面に向かっている。なんともちぐはぐな、恰好のつかない光景で暮らしていたりします。なんだか、カオスでしょ。でも今では、その混沌さをなんだか愉快だなと、フフフと楽しんでいます。

だけど、「愉快だな」と思えるようになったのはここ最近の話なんです。

「インテリアや料理について、自分なりにこだわりを持っているのであれば、寝間着でだらしない姿はなんか “違う” のではないか?」

暮らしの事を考えたり、工夫する事が好きなのに、“完璧”に暮らしを整えられていない自分が、なんだか、情けないような、嘘つきのような。
こんな私が、「暮らしの事が好き。」と言えるのだろうか?
そんな後ろめたい感覚を持つ事がありました。そして、その感覚を感じ取る度、ヒリっと苦しく辛くなる事もしばしば。
今振り返ると、最近に至るまで、上記のような、憧れと現実の「ちぐはぐさ」に対する耐性が、あまり無かったように思います。薄々「完璧な事なんてそうできる事じゃない」とは知っていても、何かと物事に対して、完全な事、正しい事、絶対的な解があると、信じたかったのかもしれません。

少し話がそれますが、私、手先が不器用なんです。資料や本を読み、授業を聞いて頭で理解したり、思考する事は、手先の不器用さと比較すると、ある程度努力でクリアできてきましたが、身体を使ったり、手先を使う技術が全然だめでした。
例えば、中学の頃の家庭科の授業。カタコトに歪むミシンの縫い目、リンゴの皮むきをすれば、ヘンテコな形に仕上がり、できの悪さに冷や汗をかきました。中高の吹奏楽部では、全然手指が回らず、テンポについていけません。担当した楽器は好きだったし、部活は楽しい事もあり、素晴らしい経験もさせてもらったなと思う反面、心の中で「へたくそだな、私。」と、ずっとがっかりもしていました。字を書くときも、身体にぐぅぅっと力が入って、ボキボキとペンの芯が折れ、それなのに字はひょろひょろと癖のある字しか書けない。そんな自分の字を、恥ずかしいなと思っていました。

「不器用である。」

自分の人生で、相当な時間を過ごしてきた私のウィークポイントです。

その不器用さを補うように、頑張ったのは学業でした。「私が何とかできる事は、手先に頼らない勉強だ。それしかないんだ。」と考えていたように思います。幸いにも、「知る事」が好きで、勉強がそこまで苦にならなかった事もあり、意識して努力すると、学校のテストで良い結果が出て、周囲の人が褒めてくれました。嬉しかった。「勉強なら、頑張ればちゃんとできる。」という自信になっていました。なんとか志望していた大学にも合格。そんな勉強による成功体験が、いつの間にか自分にちょっと過大な自信を与え、不器用コンプレックスの認識を薄れさせていました。そして、「“正しい”事をして、“正解”を出し続けていれば、“ちゃんと成功する”。」という認識が、自分にゆっくり、ゆっくりと蓄積されていったのだと思います。

その認識、少しずつ必要以上に肥大して、自分のウィークポイントに覆いかぶさり、「勉強ができる」けど、「不器用」な自分の不完全さが認められなくなってきました。とても傲慢だと、今になっては恥ずかしくなるのですが、「勉強はできるのに、なんで不器用なの?」と思うようになったんです。すると、できない部分、不器用がバレる事が怖くなっていたような気がします。会社で、上手くいかない人間関係に対しても、「ちゃんと勉強して、真面目に生きてるのに、なんで?」と固まった思考に悩まされていました。

いつのまにか、「ちゃんと努力すれば、弱点も“ちゃんと”なくなるし、人間関係も“ちゃんと”上手くいくはずなのに、できていない。つまり、自分がとても“ダメ”な人間だからだ。」と、現実を欠いた、歪んだ認知に囚われ、頭が固くなっていました。憧れと現実のズレが恥ずかしく、できていない自分にただただ失望するようになったんです。できる事もあるはずなのに、できない事が現れる度に、「できない事を潰さないと…」と自分の「できない」部分に目が行くようになり、「なんでこんなにも、できない事が多いの?」と悲しく、どんどんと自信が無くなっていきました。昔の私は、現実を必要以上に難しい・厳しい世界に捉え、「生きづらかった」のです。

ちょっと行き過ぎた考えじゃない?まだ20数年しか生きていないなら、できない事が多いのは当たり前!もう少し柔軟に考えようよ、私。と今では俯瞰して思うのですが、当時、若かった自分は真剣に、自分のちぐはぐさに悩んでいたんです。

私がそこから、認識を改められるようになったのは、どうしてだろう?と考えたのですが、大きなきっかけがあった、という訳ではありませんでした。次第に、本当に少しずつ変わっていきました。
私の場合、20代のほぼすべての期間がかかりました。その期間を通して、「どうしたら生きづらくなくなるんだろうか?」と問い続けた事、そして、出会った人と経験のおかげで、ゆっくりと変わっていったんだと思います。

そうしてようやく最近、「区別」して物事を捉えすぎず、「事実を感じ、そのまま受け取る。」という生き方に移行してきているな、と思います。
それは、どういうことかというと、

●一般的に「ちぐはぐ」な状態は良く起こりうる事で、至って普通な状態であると理解する事。
●自分自身のちぐはぐさについて、同様に、異常な事でなく、普通の状態であると、受け入れる事。
●苦手・得意、丁寧・ずぼら、できる・できないといった「区別」や「優劣」にとらわれすぎず、自分に起こる事実をただ感じ、その事実に対して、今、自分がどうするかを考えて生き続ける事。
そんな生き方です。

頑張って作った料理。不器用だから失敗が本当に多いんです。
アジを開けば指を切ったり、ひとつのことに集中したら、別の鍋の料理を焦がしたり。
それでも、料理は大好きだから、適度にさぼりつつ格闘しています。

「こだわりやだらしのなさは、混在する事もあるし、偏りや程度もその時々で変わったりする」そういった「リアル」な暮らしを感じ、「じゃあ、今、どうしたい?どうする?」を考えながら楽しむ。
こうした生き方が、ここ最近、とても楽しいと思えるようになりました。
もちろん、まだまだ頭が固く、偏った認識になる事もありますが、そうなっている自分に対しても、責めすぎる事なく、「今、ちょっと自分、偏った考えになっているかも。」と思えるぐらい、心に一定の余裕がある状態で過ごせているな、と思います。

ですが、だからといって、もし、同じように「ちぐはぐさ」に悩んでる方がいらっしゃたとして、「ちぐはぐさを認めて、楽しんでいきましょう!みなさん!」と声を大にしては言えません。
私自身、とても長い年月をかけて、思考が歪んだり固まって、そこから、少しずつ少しずつじんわりと認識が変わっていった事だったので、「簡単な事でも、すぐにできる事でもない」という自覚があります。そして、今、とても安定した気持ちで生活できているのは、支えてくれる人がすぐそばに居る、環境の良さもあると思うんです。
20代前半の私が、誰かに、同様の事を言われ、言葉を理解したとしても、だからと言って、思考を変える事はできなかっただろうし、できない自分にただただムカついたと思います。

そこで思うことは、認知を変えることは、めちゃくちゃ時間のかかる事で、どうにか変わりたいという「意思」を持ち、自分に起こる様々な経験や出会う人との関わりを通して、身をもって分かるという「過程」が存在するんだという事です。こうした「ある程度時間をかけないと理解できない事」が存在すると知っておくのは、何か課題にぶつかった時、今の自分の心の支えだったりします。

祖母に憧れながらも、寝間着姿でのんびりしていた子供の頃の私。そんな無頓着なところから、暮らしに関心を持って、少しずつ自分らしく楽しんでいる今は、「ちぐはぐ」なんてことはなく、いろんな経験が積み重なった、人生の一時点なんじゃない?と思えてきます。
不器用だから、よく失敗もするけど、ずっと昔の事を思うと、できる事も増えた。不器用でも、練習してある程度できる事だってあるし、カッコ悪いできでも、続けていくと、変わっていく事もあるかもしれない。
なんだか、それって、未来が明るいし、「この先はどうなっていくんだろう?」とワクワクとした気持ちで、日々を歩める気がします。

はじめましての方も引き続き読んでくださっている方も、お読みいただきありがとうございます。今後も焦らずゆっくり続けていこうと思いますので、どうぞよろしくお願いします。

店主 絢音

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