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【ブックガイド】穂坂光彦 『アジアの街 わたしの住まい』 明石書店 1994年12月

前口上

さて、今回、紹介するのは、穂坂光彦先生。

たぶん、初めてお会いしたのは、愛知県の日本福祉大学でおこなわれた国際開発学会大会だったと思うので、もう何年前のことだろうか。(ちょっと調べたら、2003年11月29日~30日というのが一発でわかりました。)

ともあれ、共通演題は「社会開発と福祉」実行委員長が余語トシヒロ先生で、事務局長が、斉藤千宏先生でした。そういえば。

そのずっとのち、2008年10月に、愛知にUターンしてから、同じく日本福祉大学の小國和子先生の「開発ファシリテーションとフィールドワーク」勉強会でも何度かお会いしていました。

確かにお名前としては、それなりにビックネームだとは思っていました。ところが、元々、都市開発の専門家で、もうずっと以前に名古屋の国連地域開発センターにいらっしゃったことや、国連の職員でタイのESCAP(国連アジア太平洋経済社会委員会や、国連の人間居住センターのチーフアドバイザーとして、スリランカにいらっしゃったことなど、いわゆる来て越し道を全く知りませんでした。

穂坂光彦 『アジアの街 わたしの住まい』 明石書店 1994年12月

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この本を、たまたま地元の幸田図書館で見かけて、そういえば日本福祉大学の先生のということで、手に取ったのですが、非常にその生き方に共感を覚えました。

かなり具体的な開発途上国の都市開発の国連のみならずNGOの開発戦略やその実践について述べられているので、それだけでも都市問題やスラム問題を考えるヒントになるのですが、わたしが、気になったのは、この一節。

国連職員による「ひとりNGO」アプローチ

「私は通算してすでに十七年も国連職員をしているのであるが、この本に書かれていることの多くは「本務」以外の「NGO的な」場で感じたことである。それは国連機関と草の根の間にはまだまだギャップがある、ということの反映でもある。いっきにNGO活動に専念するのも一つの立場だけれども、それぞれの場で努めることがあるのと私は思うので、ギャップの狭間に身をさらして働くことの方を私は選んできた。つまり大げさに言えば、国連を住民に近づけようと試みてきた。 (中略) それでも限界を感じて、仕事の合間に「ひとりNGO」としてスラムの現場で新しい動きをつくりだすことをいくつか試みたが、それらはおおむね手ごたえのある楽しいことだった。」 (P344~345)

この、それぞれの現場で(20年間)がんばるということも、「ひとりNGO」という生き方も、まるで私がずっと言ってきたことで、ここにも、また優れた‘歩く仲間’の先達を(17年ぶりに)発見した思いである。

「伝えあい、分かちあう」

さらに引用すると、

「(前略)こうして立ちつくすたびに私は、ネパールで医療活動をつづけた故伊藤邦幸・聡美夫妻のことを思い起こす。

(引用)毎日毎日の食事にジャガイモばかり出たら私たちはどうするでしょうか。「アーア、今日もまたジャガイモか、もっとおいしいものにしてくれ」と言うでしょう。

  しかしジャガイモさえもなかなか口に入れることができない人たちが、アジアやアフリカにたくさんいるのです。こんな不公平なことがあってもよいのでしょうか。 (中略) 引用終わり。

そこに貧しい人がいると見るか、この関係は不公平だと感得するか、それは直感的なことなのだが、この二つの感じ方の間には天地の隔たりがある。スリランカ政府も、私たち「外国人専門家」も、貧しい人たちのためプログラムをつくろうとしてきた。(プログラムに傍点)それに対してルーパたちの活動は、いままでになかった人と人との、また地域と地域との、新しい関係をつくりだす一歩となるに違いない。(関係に傍点)それはひとくちにいうと、伝えあい、分かちあう、ということである。その関係を受けとめて日本にまで広げることができるかが、私のこれからの課題である。」 (p347~348)

この引用にある伊藤さんの言葉をどうとらえるのかも私としては微妙なところで、かつ穂坂先生の続く文章とのつながりがいまいちわからないのですが、穂坂先生のいう「伝えあい、分かちあう」ということは、私も、自分で身をもって開発途上国のフィールドワーカーとのやり取りから学びました。(ex. Three Maria's Tale などを参照)

Three Maria’s Tale (3人のマリアの物語)開発コミュニケーション論におけるチェンジエージェントの一例として)2003年5月4日

この本が出た1994年の当時は、私も社会人二年目で、右も左もわからずにひとり東京で慣れない東京での‘会社員’生活に苦闘しだした頃、まあ全然、接点がなかったわけですが、当然、私が‘気づいた’ように、当時47歳の穂坂先生も気がついていたということ。

コミュニティをつなぐ

この本には、私がこのコミュ(開発民俗学)で語ってきたことがもっと具体的に学問的?に書いてありました。

特に、第三章は、そのまま私の問題意識とつながります。

III コミュニティをつなぐ

1. 学んで伝える-よそものの役割について 

     こうして私は始めた・・・・・(ホルヘ・アンソレーナ) ※コラム

2. スリランカの住民ワークショップ

     コミュニティによる居住環境計画 ※コラム

3. ネットワークによる開発協力 - ベトナムでの実験

     この家が好きだから(グェン・ティ・ノック・ハー) ※コラム

4. 二つのネットワーク

ここらを読むと、国連職員という顔と、ひとりNGOという二つの顔を使い分けた穂坂先生の実践とその思索の深まりが伺えます。

そして「キャタリスト」(カタリスト)の重要性を取り上げている点も、私と全く同じ。

ともあれ、現場を持っている人は強いわ、というのが、本稿の結論。

また、穂坂先生の実践の具体例については、別途、とりあげたいと思います。

※とりあえず図書館に本を返すので、次が何時になるのかわかりませんが^^?

ではでは^^?

わたしのつぶやき

蛇足ながら、

穂坂先生は、「願わくば、そのような歓びを日本の若い世代の人たちと分かち合いたいものだ」(前出、ひとりNGOの文章の続きです。p345)ということで国連職員という実務家から若者を育てる側にまわったわけですが、私はどういう方向を考えるべきなのでしょうか。

以前、(開発)コンサルタントの仲間(同僚)のひとりが「実務家」にこだわりたいと言っていたことを、ふと思い出しました。

わたしはといえば、・・・。たぶん、若者と一緒に考えるのは好きだけど、たぶん自分の本音は、日本人の考え方自体を変えてゆくこと、私が生きているフィールドの中で。 ということは、究極的には、民俗‘学会’や人類‘学会’を変えてゆくことなのかなあという妄想がまた膨らんでいくのでした。

ただ、ひとこと付け加えれば、民博などの学者の先生方が始めた‘実践’の学問というスタンスには、なにか本質的に違うと私は思っています。

当然、正解はないけど、もっと平の人からのアプローチが必要ではないか。軽々しく龍谷大学の中村尚司先生の唱えている「民際学」と結びつけて考えてはいけないと思いますが。※私自身が、‘民際学’を言葉として聞いたことがあっても、その内容についてきっちりと押さえていないため。

「専門化」を追うよりも、視野の広い経験交流を

ところで、もう一つ、穂坂先生のこの本より引用。

「日本のNGOがその後発性ゆえに「開発協力のプロ」を多く擁していない、ということは、欧米に比してひとつの可能性をも示している。NGOの標榜するのが「市民の海外協力」ということであるならば、いたずらに「専門化」を追うよりも、視野の広い経験交流をめざす方がよい、と私は思う。数週間でも数年でも南のフィールドで汗を流した経験を胸に抱きながら、サラリーマンや看護婦や主婦や運転手や自治体職員をしている人たちが日本のあちこちに住んでいたら、そしてそのような人たちを結ぶネットワークが広がっていったら、私たちの社会の風通しもいくらか良くなるに違いない。」 (前出目次の、III 4.中の、コミュニティをつなぐ-ACHRについて の結語 p314)

まさに我が意を得たりといった感じで、まったく納得です。さすが、穂坂先生、リスペクトです。

ではでは^^?

(この項 了)

転載:ブログ版歩く仲間 2011年9月 3日 (土) 

http://www.arukunakama.net/blog/2011/09/post-8500.html

初出: 開発民俗学-地域共生の技法- 2011年9月2日

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=21752056&comment_count=19&comm_id=2498370


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