30.『谷田遥香の記憶』




 どうして別の部屋にいるのだろう。あのちょっとした隙間から目だけを覗かせてこちらの様子をじっと窺っている。
 こちらに対して、怯えているようにも見えるし戦おうとしているようにも見える。みんなが怖いのだろうか。自分を守ろうと必死なのか、何を考えているか、あの子は男の子なのか女の子なのか、明るい子でもなさそうだし極端に明るい子でもなさそう。かといって暗い子でもなさそうだし極端に暗い子でもなさそう。
「遥香、隠れてないでおいで」
 遥香という子は声に反応して襖を完全に閉めきった。


 あの水風船がどうしても欲しくなっていた。
 大きな声は怖いから、ビクビクしながら祖父にねだると、大きい声じゃなかったけど、やっぱりどちらにせよ恐怖を感じた。煙草でしゃがれた声。戸惑いを許さないハッキリとした声。やっぱり祖父は苦手。

 灰が埃と一緒に舞っている。ガラスの灰皿は祖父の怒りを鎮めるように、けれど煽るように後ろで鈍い音を立てている。
 頬が痛い。熱くて痛い。ぴりぴりする。喚けばなにをされるかわからないから声を押し殺すようにして泣く。ただ、泣いてなくてもなにをされるかわからないから結局意思は曖昧になり、叫ぶと同時に雪崩泣く。祖父は座ったまま怒鳴っている。


 写真がある。A4くらいの少し大きな写真。
 両腕でマユちゃんを抱いている祖父。祖父の隣にはこちらに向かってポーズをきめるリョウくん。少し距離を空けて無意味に笑うわたし。この写真は祖父が亡くなる前に撮影された旅館の入り口での一枚。
 祖父は、朝から夜まできっちり働いて、日曜しか休まない人だった。煙草が大好きで、病院で亡くなるその間際まで煙草を吸っていた。先生からはやめるよう告げられていたが、祖父は煙草を吸うことが生きる摂理のように吸い続けた。母も、祖母も、そのことは知っていたけど、病気はもう治らないと祖父を含めみんな知ってしまっていたから、煙草をやめさせるのを諦めていた。もう長くない。命の短さを知っていても祖父は煙草を吸っているときは上機嫌だった。

 年に一回、大きな車を借りて、いとこの家族とわたしの家族、それから祖父と祖母で佐賀までカニを食べに旅館に泊まりに行っていた。祖父が亡くなる一年前は行けなかったけど、それまでは年に一度、必ずおなじ方法で旅行した。
 旅館に着くとまず、おみやげコーナーに走り、ご当地キーホルダーを見るのがわたしの恒例だった。ピカピカに光る小さな剣や、名産物のかぶりものをしたハローキティ。チェックアウトするとき母がどれか一つ買ってくれるから、わたしはもう着いた瞬間からどれを買ってもらうか選ぼうとしている。
 浴場へ続くフロアの奥に、広間があって、マユちゃんとリョウくんとで、夜中まで卓球をやったり話し込んだり、漫画を読んだりして一日遊びつくす。夜中まで遊べるのがこの旅館に泊まったときと花火大会のときくらいだったからこの時間がとても好きだった。たまに来てくれる大人といえば、ほとんど酔っているから、大人は子供に戻って遊んでくれた。毎日こんなに楽しく遊んでくれたら、毎日が楽しいだろうなと思ったけど、朝になるといつもの大人に戻っているから気味が悪くて、でもそれも不思議な感覚でなんだか笑えた。

 祖父と最後に旅館に泊まった日の、かなり黒く、少し青っぽい時間にわたしは目を覚ました。
 オレンジっぽい灯りの奥の窓側に、竹でできた丸っこい椅子に座る、細くて逞しいシルエットの横顔。祖父の横顔。その横顔はほとんど悲しくて、寂しくて、怒鳴られるのは嫌だったけど、わたしは祖父の向かいにあるもう一つの椅子に座り、祖父の顔をしばらく窺った。
 ガラスを一枚隔てているから音は聞こえないが、外は絶対的に静かなのがわかるほど静寂はうるさく、その静寂の中で海と空はどこまでも続き、海と空の真ん中で浮かぶ船の光はゆっくりと港に向かっていた。
 祖父は空を見てる。海も見てる。わたしは空と海を見てる祖父を見てる。お酒を飲んでいるのか、とても柔らかく笑っている。髪が伸びるように、花が散るように、そんな風に笑っている。怒鳴りもせず、あまり動きもせず。あんな風に笑う祖父を見たのは、この日が最初で最後だった。

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