7.『7月24日 〈2〉』



「ハルちゃんは漫才かコントどっち?」
 佐伯が歩くたびチャラチャラと音がする。鍵が擦れる音だろうか。
「どっちとも」
「両刀!?」
「いやそうじゃなく」
「ピン!? ピ、ピン? あ、フリップ!? 漫談? わかった落語家だ!」
「いや、あの、別に芸人目指そうとはしてない」
「へ?」佐伯はそのままの表情で固まってしまった。
「あれはね、なんというか、笑わせるためやなくて」
「ええええ!? それマジに言っとる? 笑わせる以外でマイク食べる理由って存在するん!?」
「するかも」
「え。なに。」
 佐伯が真顔でこっちを見たのでびっくりして睨んでしまった。ただ佐伯は臆さずこちらのすべてを握ろうとしている。わたしは辿々しく話をはじめた。
「ウッソ!? 北沢振り向かせるために!?」
「うん。それで、それでね、その日志乃ちゃんもいて」
「志乃って大原志乃?」
「うん。1日に2回振られた気分」
「そっかあ。でもウチが北沢やったらその日から付き合っちょるけどなあ~マイク食べる女が彼女ってどんだけ面白いんってなるしさあ~」
「そうかな」
「そうだよ! それにまだ本当の部分を本人に聞けてないわけやろ?」
「聞けてないし会えてない。でも多分ダメやろ」
「いーやダメやない!!! なんでそうなるのかわからない!」
 茂みからカサカサ音がした。
「なんで、なな、なんでなんで、んでんで、なんでウチの北沢らが、がががが、がっが、わからない!」
 佐伯はわたし以上に声を出して笑っていた。
「ウチのばあちゃん小鳥を助けたことがあるんよ。すげーやろ?」
「すごいね」
「めっちゃ散歩好きでね。どこでも歩いて行くんやけど、その日、道にヘビがおってヘビの体の中にまさに今、スズメの体が入ってく途中でね、ばあちゃん慌てて棒でヘビと闘ってスズメを家まで連れて帰って、傷の手当てして飛べるまで面倒みたっちゃん」
「良い話やね」
「でも瀬下はヘビ側の意見はどうなんとか言ってくるけどウチはやっぱりこの話が好き! あとウチの下手な字とか絵を褒めてくれるのもばあちゃんの好きなとこ!」
 話を聞きながら、あれ、と思った。
 なんでわたし達、この道歩いてるんだろう。
 短いトンネルの影を過ぎると、道に添えられた程度の公園があって、そこには遊具がなに一つ無い。廃屋の洗濯物は揺れている。
 数匹の羽虫が顔にひっかかり声を出してしまった。佐伯は笑ったが一瞬だけ、声を出してしまったね、というような顔をしたので、この人は本当に佐伯なのかとうたぐった。
 川底の鯉が浮いたり沈んだりを繰り返し、周りの木々はざらざらとコマ送りの様相でゆらめき、それを嘲笑うかのように蝉がギィギィ鳴いている。カラスがカァカァ喉を鳴らしてる。確かにここには川があるはずなのに、水の音は一切せず、鉄塔にぶらさがる灰色の電線がぶらんぶらんと音を立てている。
 ━━もうくらいね
 急勾配の坂を歩く佐伯の、だいぶ前から声が聞こえた。
「え?」
「ん?」
「今、なんか、言った?」
「いいえ、どうかしたの?」
 佐伯は振り返らずになぜか丁寧な言葉をつかう。
「え? え、え?」
「どうかしましたかぁ~」
「いやほらさっきなんか」
「着いたよ!」
 ダムだった。
 ダムに着いていた。遠いところで車が走る音がする。それ以外の音がうまく聞き取れず、大きな大きな水溜まりは光なんて一つも反射しないだろうなと感じ、利き脚を下げると何かに当たったので佐伯を見た。
「渡ろ」
「え?」
「渡ろうか」
 石橋のはずなのに立てつけの悪い木の橋に感じるほど足場が揺れる。
 後ろから音がした。小雨が降っているような、排水溝の近くでお湯が渦巻いているような、水自体が動いているような、それは裸足の足音のような、とにかくそんな曖昧でこそばい音が、わたしの気を引くように鳴っているから強く、佐伯の手を強く強く握る。
 佐伯の動きが止まる。わたしも止める。うまく呼吸ができない。
「加藤?」
 佐伯の声はいつもより低いようで高い気がした。少し先の方を見る。今までどうして気づかなかったのだろう。この橋には淡い靄がかかってる。そして空が異様に青暗い。
 横顔は確かにカトエマだった。だけど一目で、あれがカトエマじゃない誰かだとも理解できた。
 風が一つ二つ吹いて、あいつがこっちを見ると思ったからわたしは視線を動かした。
「佐伯ちゃん。渡ろう」
「へ? うん」
 大きなお花を握ってる?
 わからない。わからないけど、とにかくあいつを見ないように橋の、荒いざらめを見る。サンダル履きの片足が、視界の中に入ってきた。わたしはその場で止まってしまった。
「偶然!」
 声はものすごく大きいはずなのに、その声を誰が発したのかがわからない。佐伯の声じゃない。カトエマの声でもない。男性の声だけど女性の声でもあるし、子供の声だと言われればそう思うけど、大人だと言われればそれも頷ける。頭のなかにある、知り合いの声を再生して、唯一、該当する声があった。一番似ている声は、わたし自身の声だった。
「散歩?」
 片脚を動かす。動きを合わせられてしまう。
「私も散歩! 休憩してた!」
 最初に聞いた声とはもう別の声になっている声にはたくさんの声が混ざり、これはもう人間が発する声では無いと感じた。
「ねえ見て! 綺麗だよ! ほら!」
「佐伯ちゃん」
 佐伯の声が無い。わたしの耳がおかしくなっただけか。
「ねえどうしたの? 変だよ! もう一回見て!」
「佐伯ちゃん!」
「見て見てほらほら! 綺麗だね! 綺麗だね!」
「佐伯ちゃん!」
「本当に綺麗、なんでこんなに綺麗なんだろう、不思議だね、綺麗だね」
「さ、佐伯、佐伯、佐伯佐伯ちゃん!」
「どうしてこんなに綺麗かわかる? どうしてこんなに綺麗かもうわかるよね?
「ハルちゃん!!!」
 佐伯の声で手を離しそのままの視線で走る。隣で激しい呼吸を繰り返す佐伯がいる。耳元で声が聞こえ続けている。
 かんこのうずめがけむかれてたったらた かんこのうずめがけむかれてたったらた かんこのうずめがけむかれてたったらたった
 
視界が揺れる。体が揺れている。両脚の震えが止まらず座ろうとしたがわたしはもうすでに地面に座っていた。
「なんなんマジで! これなに? ちょっと待って待って! 怖い! 怖い怖い怖い! ああ怖っ! 今のなんやったん!? なにが起きたん!? なんなん! なんでなん! こんなん見せるためにウチのこと誘ったん!? ひど過ぎるやろこんなん! ドッキリやとしても怖すぎるって!」
「待って、待って佐伯ちゃん。今なんて言った?」
「ドッキリやとしてもひど過ぎるやろって!」
「いやわたしはただ佐伯ちゃんについてきただけで」
「はあ!? 意味わからん! 祖母の話もあれ嘘やったんやろ! ウチを騙すためにあんな昔話みたいな嘘こいておかしいと思ったんよ! 本当にオリジナルか?! 違うやろ違うんやろ作家つけたんやろ! もしかして瀬下も共犯!??? しんど!」
「お願い、ちょっと待って、お願い待って、わかんない。それはわかんないよ。だってそれ全部佐伯ちゃんが」
「これなんて話せばいん? どうやってまとめりゃいん!? マジで怖かった!」
 車の音よりも蝉の音が大きい。雷がどこかで鳴っている。
「佐伯ちゃん」
「なに!?」
「漏れちゃった」

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