15.『同日 谷田遥香③』




 –––蝉って意外とこの時間帯にも鳴きますよねえ
 雨が降り出していた。窓にへばりつく雨粒が窓の底に辿り着く前に風にひきちぎられていく。赤、というか黒く見える慧くんの血がティッシュに付着している。下唇にも血が滲む。
 群青色の服に着替えたときの慧くんの上半身は石像かと思えるくらい恍惚極まりなく、さっきの出来事にドキドキしているのか、上半身にドキドキしているのか一瞬でわからなくなった。まだ心臓がトクトク鳴っている。
 –––びっくりしました。長年この仕事やってますけどね。はじめてですよ! ついにワタシにも来たぞ! って思いましたね。やっぱり憧れるじゃないですか、あの車を追ってくれとかそういう映画的な場面! 君達の表情はね、まさに映画でしたよ!
 黙ってはくれないだろうか。最初はよく喋る運転手だなとしか思わなかったがさすがに喋り過ぎている。客に喋りかけていい域を超えている気がする。映画が好きならこの状況わからないのだろうか。今良い感じだろうが。
 慧くんはとくに運転手の話を聞いてなくて車内の明るさも関係してるのかいまいち感情が読み取れない。運転手は指をハンドルにタップさせて信号につかまったところでまた話はじめた。話の触りがよくある怪談っぽいのも腹が立った。
 –––それでお客さんが言ったんですよ。皿倉山までって
「ちっこい方、兄貴の眼に似てた」
「それは、終わってる人の眼?」
 –––こんな夜遅くに珍しいなと思って
「ああ。あれは空箱の眼だ」
 –––よぎりましたね。ワタシだって長いこと生きてますから。あ、これ、知ってるぞ。例のやつだって。服装も変なんですよ。真冬に半袖のワンピースですよ? うわ、もしかしてヤバいもの乗せたんじゃないのかなってだんだん怖くなってきましてね
「兄貴がおかしくなった最初の日に、あの眼を見たときは怖かった。なんだろうな、ああいう動物いるんだけど、なんだっけ?
 –––高速乗ったくらいですかね。いつもはこんな風に話してるんですけど、ワタシが、このワタシがですよ? 話すのやめちゃって。本当に怖くなっちゃって。でもマジのお客さんだったらどうしようっていう不安もあるじゃないですか? だから引き返すこともその人を追い出すこともできなくて、恐ろしいですよ、トンネルのオレンジに照らされた車内のなか二人会話無し。夢なら醒めてくれって」
「サメ?」
「それだ。『ジョーズ』で見たんだああいう眼」
 –––車はどんどん山の方に向かって山に近づくにつれて動悸が激しくなってきて、もうこの空間にいたくないなって。話しかけようとしたときワタシはね、気づきましたよ。そういえば荷物持ってないなって、それに靴下も履いて無いのに固そうなヒール履いてて、うわ、完全にあれだ。完全にあれだよこれ。どうしようワタシこれからどうなるんだろうって
「兄貴の話ばっかりになっちゃって悪いな。他のやつには話しづらくて。アラケンも悠馬も気つかってくれてるし俺から話すもの逆に悪いなって」
「不安が無くなるまで話していいよ。ずっとこのまま」
 –––ありがとうございます。ワタシね話すの好きなんですよ。噺家になろうかなって時期もあったくらいですからね
「あんなんになる前はさ、知らない漫画の話とか、こんな映画が上映してるとか、このバンドがかっこいいとか教えてくれたりしてくれて、兄貴がいると家のなかがピカピカ明るくなってさ、そういう人だったんだ」
 –––山の入り口なんて真っ暗ですよ。もう引き返したかったんですけどお客さんが一言、いって、って。ワタシにはこれがあの世に逝ってという意味に聞こえてですね
「これは俺の話なんだけど心霊特番とか都市伝説の番組とか好きだったんだよちっちゃい頃。兄貴の影響なんだけど。とくに好きだったのがほら、昔よくやってただろ? 探検隊のクルーたちがジャングルの奥地行って未確認生物探す番組。それが一番好きだった。金曜の『ターミネーター2』も好きだったけど俺はやっぱり探検隊だったな」
「引っ張って引っ張って結局最後は見つからんやつやろ?」
「そうそう。やっぱ見てたんだ谷田も」
「わたしも好きだったからあの特番」
 –––山道を走る音もガードレールがある道も無い道もわたしの車のライトさえ怖く感じるんです。もうすベてが
「中庭で穴を掘ってた兄貴をみたとき、ビックフットとかネッシーとか、そういう未知の存在に出会ってしまったような感覚になって。話しかけるんだけどさ、違うんだよ。中身がまるで。もうそんな歳じゃないってわかってたんだけど俺はそのときエイリアンかなんかにアブダクションされて人格いじられたんじゃないかって。あんなに優しくて明るい兄貴が家族のこと無視するんだよ。家族と喋らない分独り言が増えて、不気味だったよ」
 –––不気味でしたよあの日の山道は
「今はだいぶ喋るようになったけどほんの少ししか会話ができてなかったとき俺聞いてさ。兄貴、どうしちゃったの? って。したら俺はもともとこんなだったよって。今まで隠してたけど本当の俺はこんなだよって。幼稚園で頭を強く打った日からこんなでそのとき治療してくれた先生に脳みそ改造されて、そのことを誰にも言わないよう約束したけど隠すのもう飽きたってなんとかかんとか言ってたけど俺はね、そんなことなに一つ無かったって思ってる」
 –––ワタシはお客さんにこう言いました
「兄貴が本当を隠し続けてきたことは本当かもしれないけど後半のは全部嘘だ」
 –––早く降りてください。早く降りてください。返事が無いから何度も
「デタラメだよ。兄貴はただ自分でそう思い込んでるだけ。自作の何かを勝手に抱え込んでウジウジ言ってるだけ。ムカつくよマジで。兄貴は弱いだけだ」
 –––何度も何度も呼びかけるんです。早く降りてくださいお客さんって
「だからさ、いつかもし、俺が兄貴みたいにおかしくなったらその時は俺に言って」
 –––何も言わないから今度は強く言いました。お客さん早く降りてくださいよ!
「今おかしいよ変だよって。そんで谷田が誰かのかわりに俺のこと笑ってくれ」
 –––早く降りてくださいお客さん!
「約束な」
「うん。わかった」
 慧くんの小指の温度がわたしの小指に伝い、わたしの体に温度が入ってくる。慧くんの顔はよく見えない。わたしの顔もよく見えないのなら、そうだったとしたら、今なら、
 –––着きましたよお客さん! 早く降りてください!
 メーターに表示された料金をわざとトレーに叩きつけてタクシーを降りた。車内から出た慧くんはどうしようもなく笑っていた。
「そういえばさ。慧くんって呼んでたね」
 顔面が熱い。その温度のなかに不安のような冷たさを強く感じる。

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