5.『7月19日』
7月19日
痛い。
口内が痛い。
口の中で昨日が疼き回ってる。
みんなが間髪入れず曲を入れていたのも、わけわからんところで笑い合っていたのも、わたしを会話に入れようとしなかったのも、全部わたしがもたらしたもので誰のせいにもできず、帰りの電車で独り、筑鉄の窓から見える茜色に染め上がった田園をただ眺めていた。
部屋にあるもの全部捨てようと思った。何度もクリアしきるゲームソフト、わたしを理解してくれる漫画、日々を彩ってくれる音楽と映画。
わたしは、わたしがわたしである理由をつけてくれたすべてを淡々と呪い、そのすべてを思いなおし、項垂れ、ほくそ笑んだまま泣いた。体から服を剥がしゴミ箱に捨てようとしたけど服からは煙草の匂いがしてその匂いから慧くんを連想してしまい捨てれずにまた泣いた。
ふぁふぉふぃふんふぉふぉふぉふぁふふぃいいいいいいいいいいい!
なんにもうまくいかないわたしと、なんでもうまくいく志乃ちゃんの違いはなんだろう。
志乃ちゃんはだって好きな人のためならマイクだって頬ばる構えは当然、わたしがやったことなんて微々たる勇気にも満たないただの自己満足の象徴のような愚かな行為。
変態。変態だ。わたしは変態なんだ。
自分の欲を満たす為だけに毎夜カサカサなにか企んで、不審なタイミングで人前に現れては恥部を曝け出す変態。相手を傷つけて自分も傷ついてダメな共同作業みたいな顔で暗い所にトボトボ帰ってく。
わたしはあの日なにがしたかったのだろう。
わたしはわたしがほとんどわからないし、わたしの中にまだまだ知らないわたしがいると思うと途方もない虚無を強く感じる。知らなければならない。わたしはわたしのことを。
「ほいで?」瀬下さんは気怠そうに肘をつき、ボールペンのおしりをガシガシ噛んでいる。
心を鎮めるために図書館に入ったのに、にしては喋り過ぎだ。でも、こうやって話を続けている。注意してきそうな大人の目にも臆せずに。
四台の大きなテーブルがあって、小学校低学年くらいの子供らが各々の場所を陣取っていた。その一角を瀬下さんが占めていた。
テーブルには本などなく、ノートになにか書いているのが後ろ姿を見てわかった。なにか小声でぶつぶつ言っている。誰もいないはずの隣の椅子に、まるで誰かいるように。
なにかに取り組むその真剣な後ろ姿には、禍々しい念のようなものが漂い、それはうねり、渦になり、その渦に吸い寄せられるように、奇妙にも救いを乞うように、縋るように、両足は瀬下さんに向かっていた。
声をかけると、瀬下さんはこちらにあまり反応を見せず苛つきながらペンを噛み続けていた。癖なのかもしれないと考えたが、こちらに"わざと"その動きを見せているかもしれないとも思えた。ノートが気になった。でも触れなかった。利き手じゃない方の手があまりにも不自然に内容を覆っていたから。
話をはじめようと声を出したとき、誰かに昨日のことを聞いてほしかったんだと思った。わたしは少し、泣きそうになっていた。その様子を見た瀬下さんは聞き役にまわることを決めたというように、わたしの目をまっすぐ捉えた。
「それで、志乃ちゃんが、タレントになりたいって言い出して」
「まあ、華あるもんな大原は」
「で、食べた」
「いやなんでだよ」
「本物のタレントに見えた。志乃ちゃんが」
「やからって、マイクを? ヤバ過ぎだろ」
「ヤバ過ぎる。慧くんが遠くなる」
「だけやないよ。恐らく、ちゅーか、大原もその取り巻きも遠くなるし、このことは同級生全員に、この夏休み中に広まるやろうね」
「同級生も取り巻きもどうだっていい。問題は志乃ちゃんと慧くんやろ?」
「そうなの?」
「どう考えてもそうでしょ」
「キレんなや」
「どうしよう。せっかく隣の席になれたのに。わたしどうなるの」
瀬下さんは眉間にしわを寄せ「被害者面すんなボケが」とキツい舌打ちを打った。
「でもまあ、そんときの谷田がそんときそれをやりたいって思ったんやろ? それって仮に北沢と付き合えたとしても数日でバレるんやないの?」
「そんなの出さんように努めるよ」
「努めたとてって感じするけどなあ谷田は。アンタはそういうタイプ」
「そういうタイプ?」
「食べてはならない好きな物が目の前にあったとして、一度はじっと我慢するけど、その待つという行為に頭が占領され蝕まれて狂っちまって、ようわからんくなって最後はよだれ垂らしながら貪っとるみたいな、そういう感じやろ?」
「やっぱり変態だ」
「だけど私は谷田とか佐伯みたいなやつを変態とは思わんよ」
「どうして?」
「もともと人ってそういう生物なのに欲望に従順なやつを変態やって、下品やって、誰かが貶してしまったからそういうやつのことを変態って呼び出したんやから本当の変態ってやつは欲望に背いてアホなことも言わん、アホなこともせん、顔の無い顏で日常に溶け込んどる人間のことを変態やって言うと思うんよ。裁かれないように、叱られないように、コソコソ人の顔色窺って日々に墜ちてく人間を私は谷田より面白いともかわいいともおもわん」
瀬下さんの目が真剣だから、わたしは瀬下さんを信じようとしている。
「とりあえずこの場に佐伯おらんで正解やったわ。あいつおったらこんな話せんで今朝のみそ汁の具とか歯の磨き方の癖とかしょうもない話ばっかしてたやろうから」
「佐伯ちゃんは、かわいい?」
「あいつは、かわいいとかやないよ。ただ、」
「ただ?」
「あ、佐伯で思い出したわ。今度みんなでサバゲーするんやけど谷田も来るか?」
「エアガン持ってないよ」
「私の貸したげる」
「いいの?」
「佐伯ボコす用に改造したP-90貸すわ。こいつで彼氏ごと顔面ハチの巣にしようぜ」
「佐伯ちゃんって彼氏いるの?」
「な? かわいくないやろ?」
瀬下さんはノートを閉じる。
「あ、今日はありがとね。瀬下さん」
「瀬下でいいよ」
怪談レストランを読んでいる女の子が深く溜息をついて、それを瀬下がそういう妖怪みたいに吸い込んだ。「それなに?」と尋ねると「お土産」と笑みを浮かべた。きっと、瀬下さんが言いたかった「ただ」の続きは、
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