4.『7月18日 〈3〉』



 『不憫不便ふびんふべん』のボケ担当、野々子邦彦ののしくにひこがバライティ番組に出るたび、美談の様相で「ブスマンの103号室で相方とネタ合わせして、最後はマイクに向かって絶対売れるぞって叫んでおしまいにしてたんです」と語るから、県外からファン達が押し寄せ「ブスマン」の店先には列ができ、地元民はそれを嫌った。
 理由はただ一つで、本当にシンプルなもので、歌を歌えないから。
 この地域にはカラオケボックスが少ないからカラオケというえば「ブスマン」か「ダイヤモンドエコー」で、ファンの情熱からまるで逃げて来るように「ダイヤモンドエコー」はほとんどサマーリゾートのような場所になっていた、が、『不憫不便』がコントの日本一を決める賞レースで準優勝してから1、2年ほどで列は消え去りふたりはテレビから姿を消した。今は動画配信サービス上で好き勝手暴れまわっている。
 地元民の、とくにわたし達のようなやからしか、今はこの話を口にしない。わたし達もきっと、心のどこかでこの話を馬鹿にしていて、でもやっぱり「ブスマン」に行くと103号室を選んでしまう。ようするにわたし達は『不憫不便』のことがまだ好きなのだ。
「おい彩」
「うわ悠馬やん、最悪」
「なにがや」
 慧くんだ。
「なにしとると?」
「なにって、三人でカラオケ行こうと思ってね」
 慧くんと志乃ちゃんが喋っとる。
「アラケンまた焼けた?」
「焼けとらんばい」
「悠馬たちなにしてたん?」
「映画映画、スピルなんちゃらの映画」
「彩たちは?」
「普通にぶらぶら」
 どうしよう。慧くんがこっち見とる。
「おい彩なんだその子。他校の子か?」
「谷田さん。3組の谷田遥香はるかさん」
「谷田です」
「覚えとらん悠馬? ウチら1年のとき同じクラスやったやん」
「そうなん? ごめんね谷田さん!」
「大丈夫、気にしないで」
「1年の体育祭のとき、すげえ脚が速かったよね」
 うぇ!? わたし? 
「陸上部じゃないのにすげえなこの子って、あれ、違った?」
「あぁ~思い出した! グッサンがウチの部入ってくれんかって言ってた子!」
「グッサンだ~れえ」
「グッサンつったらウチの主将やん! ハヤブサの関口せきぐち、知らん?」
「知らん」
「俺サッカー部の北沢きたさわ慧、よろしく」
「よ、よろ、しく」
「今度さ、どっちが速いか競争しよ」
「慧お前ガキかよ、ほら谷田さん引いてるやん」
「悠馬が一番ガキっぽいけどな」
「うっせえわアラケン!」
「今でも、わたし速いよ」
「やる気やねえ谷田さん」
「カトエマも走っとく?」
「いや遠慮しとく」
「サッカー部だから、負けませんよ」
 サッカー部の慧くんと、何者でもないわたし。どっちが速いだろうか。
「ねえせっかくだから一緒の部屋にしない?」
 志乃ちゃん?
「ね、いいよね? 谷田"さん"?」
 どうして。どうしてわたしに聞くの? どうしてそんな目をするの?
「うん、いいよ」
「きーまりっ」
 誰かがつくった歌を知らない誰かが知らない誰かのために歌っているからこの待合室は少しもうるさくない。


 不思議で仕様がない。なぜリンダ・スコットなのか。
 美しい志乃ちゃんは、美しい歌手の美しい曲を知っていて、歌えてしまうのはなぜだ。慧くんは体全部で志乃ちゃんの甘くて明るい声に浸ってしまっている。わたしもそういうことになるのだが、もう一つ不思議なのは慧くんの隣にわたしが座っているということについてだ。
 小学三年生のとき、はじめて同じクラスになったけど、慧くんとは今の今まで隣の席になったことがないから話すのも夢のまた夢の、さらにまた夢のように感じていた。それが今、慧くんはわたしの隣にいる。隣でわたしの好きな志乃ちゃんのわたしが愛してしまいそうな歌を歌っている。
 志乃ちゃんは、みんなが一度は耳にしたことあるような曲も、そうじゃない曲も、持ち前の身振り手振りで誰彼と振り向かせてしまう。
 志乃ちゃんはどうしてこんなに完璧、みたいなんだろう。欠点もあるだろうけど、ほとんどすべてが整っているから真逆の欠点を見せられるとそれさえも愛嬌あいきょうの片道切符の形で志乃ちゃんの魅力がわたしの知らない世界へと連れ攫ってしまう。
「北沢くんオアシス好きなん?」
大原おおはらも好きなの?」
「好き好き!」
 志乃ちゃんの好きにエコーがかかり好きスキすきすきスキ好き。
「わたしも、好き」
「え?」志乃ちゃんがやっとこっちを見た。
「マジで? 谷田さんも?」
「ちょっとやけど好き」
「それって良い感じだね! あ、はじまるはじまる!」
 普段より深い声で、伸び、飛ぶ、慧くんの健やかな歌声のロックンロール。
 悠馬がすするサンラータンの音もきつい臭いも、今じゃこの曲の風景にすぎず、アラケンとカトエマが見つめ合う時間が長くなっているのも窓越しの空や起きてすぐの天井ほどにしか感じない。それほどに慧くんの声とオアシスの歌はわたしにとって大切な、とっても大切な場面に変わりつつある。
 彩花がコップを持って部屋を出る。悠馬がスープを飲む。カトエマはアラケンの髪を撫でている。アラケンは恥ずかしそうに画面の詩を追っている。わたしは慧くんの歌を聴いている。
 志乃ちゃんは、志乃ちゃんは。
 声の無い合図を出したから、合図が終わる前に先に外に出た。
 志乃ちゃんが部屋を出たのとほとんど同時に悠馬が入れた曲がはじまって、幽霊を穴蔵に封じ込めるように、徐々にドアは閉まり、音量は小さく部屋に留まった。
 志乃ちゃんの両目とわたしの両目は合っている。でもどうしてなにも言ってくれないのだろう。モールの時みたく話してほしい。わたしが知らない志乃ちゃんをわたしに教えてほしい。志乃ちゃんが知らない志乃ちゃんをわたしに教えてほしい。
 知って、なにか思って、思ったところで志乃ちゃんにはなれないけど、少しだけ志乃ちゃんになった気分になりたいからその感覚をもっと感じてみたいけど、感じたところでわたしはわたしで志乃ちゃんは志乃ちゃんだから、だからわたしはわたしに無い志乃ちゃんのその体にある部分は理解してみせるからもっともっとわたしはわたしでいなければならないし志乃ちゃんはそのまま志乃ちゃんであってほしい。志乃ちゃんの笑顔が今見たいしもっと見たい。
 志乃ちゃんの無口な背中が饒舌じょうぜつになにか語りながら歩いて行くから会話の無いままトイレに着いてしまった。
「待ってて」
「え?」
「いいから」
「うん」
 無機質な個室ドアにお揃いの紙袋がはさかって志乃ちゃんは力強くドアを閉めた。個室から出てきた志乃ちゃんは、さっきまで着ていた服と違う服を着ていて、それは新しい志乃ちゃんで、それがちょうど射す光の加減で光そのものに見えてしまった。
「谷田ちゃん、ごめんね。」
「うん、ありがとう。」
 志乃ちゃんは鏡で顔を確認して出てった。
 さっきまで志乃ちゃんを照らしていた光の、大元のような場所を目で追って、でも追っても追ってもそれはただ白いだけの他人のような色だと感じてしまい、鏡の前に立ってからすぐに両目をつむった。

「毎年恒例!? 未成年の主張大絶叫絶体絶命スペシャル!!」
 悠馬のしゃがれ声が大きなノイズとして片耳に殴りかかる。
 志乃ちゃんは「いえーい!」ときままに言いきって万歳した。万歳すると袖のひらひらが小さく揺れながらはっきり動いた。
「さあやってまいりました未成年の主張! 今日集まってくれたのはこいつらだ!」
「こんなんするの好きよねえ」
「さあ一人ずつ名前を叫んでくれ! まずは君からカモン!」
「北沢慧です。サッカー部です。自転車が好きです」
「ありがとーう! 今日のギアはマックスで頼むぜ! 続いて!」
「大原志乃、14歳。好きなのは洋服とお肉です」
「お肉好き女子最高! ちなみに俺はレア派だぜい! どんどん行こう」
荒垣健太郎あらがきけんたろうです。趣味は筋トレ、あ、バドミントン部です」
「いや胸筋にフルメタルジャケット装備してんのかーい! ほんでほんで!」
「両野彩花で~す。特技はタイピングでーす」
「おお良いですね~確かに指使い」
「おい」
「はい。ささ残すとこはあと二人! ゴーゴーレッツゴー!」
加藤瑛真かとうえいまです。こういうテレビは初めてなので緊張してます」
「入り込んでなさそうで一番入り込んでくれていたのがカトエマだ!! そういうとこ嫌いじゃないぜ!」
「ありがとうございます。好きなのは韓国料理です」
「今夜はサムギョプサルパーティで会いましょう! さあラストはこの人!」
「谷田遥香、15歳。好きなのは、散歩と蕎麦です」
 わたしはわざと志乃ちゃんの両目を見る。
「渋い! 中学生とは思えないこの趣味と好物はなんだなんだなんなんだ! てことで司会はわたくし苗木なえぎ悠馬が勤めさせていただきます! では早速北沢くん。あなたの夢を、このマイクに向かってもうね、マイクぶっ壊れるくらいに叫んじゃってください!」
「知ってるだろ悠馬は俺の夢。」
「バカていてい! 知らないていだから今は!」
 慧くんは大きく空気を吸い込んだ。
「俺の夢はああ! バイク買ってええ! 彼女を後ろに乗っけてええ! 二人で色んな景色を二人で見ることだあああ!!」
 慧くんの健やかな声が両耳を包んだ。荒々しく息を吐いてる慧くんはバイクそのもののようで、後ろじゃなくて、慧くんを乗り回したい。
「バイクだけにヘルメットやね!」
「なにもかかっとらんばい?」
「アラケンは細いなあ~じゃあ続いて大原ちゃん! いっちゃって!」
「はい!」
 数秒で移り変わるたくさんの色たちに照らされた画面色の志乃ちゃんが、自分の色を発色するようにほんの一瞬わたしをまっすぐ見た。
「タレントおおおおお!!!!!」
 悠馬より慧くんより大きな声を出したのでわたしを含めみんなが驚いたがすぐに顧みて志乃ちゃんを見返した。
 夢色声の残響がまだこの部屋を占めているから誰もなにも言えずただ一人、志乃ちゃんだけが笑っていたから悔しくてたまらず志乃ちゃんにおさまっているマイクを奪い、奪ってみたもののなにを言えばいいかわからずマイクのギザギザを見下し、網目の奥の黒っぽい穴を見たとこで前を見て、慧くんを見て、志乃ちゃんを見て、他のやつらを見て、黒い幕で覆われた窓のそのわずか数ミリの隙間から射す陽を浴びてからもう一度マイクを見て、鼓動より少し速いスピードで吸い込むようにマイクを口に入れた。
「谷田さ」
「ふぁふぉふぃふんふぉふぉふぉふぁふふぃいいいいいいいいいいい!」
 意味がわからなかった。
 この場にいる全員の顔の意味ははっきりわかる。
 でもそうじゃなくて、なぜ、やかましいほどの蝉の声が距離無く、もうスピードで聴こえてくるのだろうと。黒っぽい点がややにじる。

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