22.『花火大会当日 両野彩花』



 同日 両野彩花


 
–––こぽんこぽん、あわの音。こぽんこぽん、あわの音。

 もう苦しくもなんともない。足掻く力もない。体は底に沈んでくだけ。

 キラキラした透明と空の青。なんか、水中ってより、飛んでるみたい。

「アンタ、名前は?」
「悠馬」

 うわ悠馬じゃん。なにこれ懐かしい。

「ここらへんじゃ見らん顔やね」
「引越してきたんだ」
 悠馬は私のアパートを指してる。
「何号室?」
「303」
「マジ? 隣じゃん」
「そうなんだね」
 これは私と悠馬が出会った最初の日。アパート近くのお墓で泣いてたから話しかけたんだ。
「あ、あの、ね。どうやったらいじめられんくなる、なるのかな」
「うーん。まず声がちっさい。もっとはっきりしゃべれ」

 私はいっつも威張りちらしてんなあ。今と全然変わっとらんやん。

「はっきり?」
「そう。はっきりでっかく。そして笑え」
「それだけでいいの?」
「十分。体がちっちゃくても声がデカけりゃ大丈夫。性格も明るくなくたって笑ってりゃそのうち普通が明るくなって明るいやつになっとるっちゃ」
「うん、わかった!」

 あのときの笑った顔がすげえ可愛かったからさ。私は悠馬のことすぐ好きになったんやっけか。

 なんで今更こんな、思い出してんだ私。


 昨日は生乾きのまま眠ってしまったから髪が草臥くたびれてる。昨日もその前の日も、そうな風に寝落ちしてしまった。
 最近やたら寝るのが遅くなってしまう。テレビつけて布団に寝転んで動画見て、カップ麺食べてそんなことしてたらもう3時とかで、今更焦ってもしかたないのにちょっと焦りながらシャワー浴びて生乾きの髪のまま、布団に寝転んで動画見て、時計を睨むと4時半でそっから思い出せないくせに一日のこと振り返って。
 当然なんもしてないから浮かぶものはなんもなくて、夜が終わって朝がはじまって体はダルいのに頭だけ妙に冴えてて、その冴えた頭のまま体は布団に沈んでいくからまるでこの部屋が水槽みたいに思えてきて、だったら自分は魚かもなんて妄想して、抜け殻のような服の散乱する部屋で蝉の声に起こされる。
 夏休みだっていうのに楽しかったのはほんの最初だけ。後はずっとイライラしてて、そのイライラが視界を霞めて頭にはほとんど毎日霧がかかってて、その霧はみんなにもかかっているのかみんなの話し方はなんというか歯切れが悪い。そりゃ何日も誘いを断ったりしてたらそうなるんだろうけどまるで私にだけ何か隠しているようにカトエマもアラケンも、悠馬も隠し事を共有してるっぽいけど私だけ知らない状態で、夏休み中なんかあった? って聞いても「なかった」の一点張り。
 いやそんなわけないやん。だって夏休みなんやもん。ないわけないやん。三人は私になにか隠してる。でもそれがなんなのかわからない。三人の隠し事は志乃も知ってるのだろうか、あのクソ女もそのこと知っているのだろうか。あーあ、まただこれ。またあいつのことでイライラしてる。
 悠馬はどんどん先へ進んでく。私のことなんかどうでもいいんかな。カトエマもアラケンも私をほっぽって浴衣とじんべなんか着ちゃってさ。しかも手なんか繋いじゃってさ。
 悠馬はそんなんでいいの? 私とはもう繋いでくれないの? もう私らの関係って終わったのかな? 悠馬にとっての私ってこんなもんだったんかな?
 あーあ、マジでイライラする。目うつりばっかして私だけ見とればいいのに。バドミントンだけひたすらにやっとればいいのに。あーあ、あーあ、前までは逆だった。私が悠馬の先頭で悠馬が私の後方だった。私だけがこのイライラをみんなと共有できてないのはなんで? それってもうみんなクソってことじゃん。
 谷田遥香は文句なしのクソだし志乃は北沢くんにお熱でクソだしアラケンとカトエマも私に黙って付き合いはじめたからクソだしみんなクソ、クソクソクソ。
 前はもっと話し合えてた。教室とかそうじゃないとこでくだらない話とかそうじゃない話とか、悠馬の話が私の体験になるように、私の話が悠馬の体験になるように。そんな感じで話し合えた。
 人間関係ってどうして変化したりして形状を維持できなくなってしまうんやろう。悠馬との関係は、みんなとの今の関係は、はっきり言って全然楽しくない。
 このままいけばみんなのこと本当に嫌いになりそう。今のままが続けば多分、悠馬とは別れることになる。
 もしも、もしもこのまま別れてしまったら、私はどうすればいいの? 最近そんな気持ちばっかだ。気持ちだけが沈んで楽しいこともどっかにいってしまう。
「どしたん彩?」
「別に」
「あっそ。コンビニ寄るんやって。なんかいる?」
「いらない」
 悠馬は舌打ちをしてアラケン達の輪に入ってく。
 なんなの今の態度。マジムカつく。もっと言うべきことがあるでしょなんなんあっそって。舌打ちとかマジでありえんのやけど。
「つーかさ、会場着いてからでよくない?」
「混むから。飲み物くらいは買っとこうって」
「アラケンそれマジに言ってる? 並ぶのが祭りの醍醐味じゃん」
「いや彩お前並ぶのとか超嫌いじゃん」
 お前は黙っとれ。
「でもほら、熱中症になったらいけないし」
「なるわけないやろ」
 カトエマは鼻で笑った。アラケンも、カトエマと同じ目をしてる。
「そんなに並びたいんやったら彩だけ買わんどけばいいやん」
 まただ。
 また私だけノケモノにして。
 何がそんなにおかしいの? なんでそんな目で私を見るの?
「彩花さ、まだ体調よくなってないんやない?」
「そうかもしれんね。彩、先帰っとくか?」
 悠馬までそんなこと言うの?
「お土産なんがいい?」
 ああ。
 ああそうか。
 わかった。
 そうだったのか。
 これは、私だ。
 あの日谷田遥香をノケモノにしようとしてた私の目だ。三人の目はあの日の私そのものだ。
 全部、私のせいなんだ。なにもかもうまくいかないのは、楽しくないのは、悲しいのは全部。
 誰かのせいだと思ってた。このイライラは全部谷田遥香やこの町のせいだと思ってた。けどでもこれは谷田遥香という存在を、私を取り巻くこの町のことを受け入れられなかった私の弱さが生み出した亀裂。誰のせいでもなかったんだ。
「彩のこと送るから行っとって」
 もしあの日、谷田遥香を受け入れることができてたのなら、私はこんな私にならずにすんだんかな。
 ずいぶん酷いことした。谷田遥香にも、荻美咲にも。

 あの猫に餌をあげるのは確かに私の役目だったはず。だって私がずっと可愛がってたから。それなのに今まで自分が育ててきたみたいな顔で荻美咲が給食のパンやら牛乳をあげるものだからその日から、私は猫に餌をあげなくなった。猫にとっての私は私にとっての猫じゃないって知ったから。
 次の日には荻美咲の噂を流してた。気づいたら流してた。ねえ聞いて聞いて荻さんって実はって。無色だった軽薄な嘘はやがて色が塗りたくられてみんなが面白がる。遠くで見ると鮮やかだが近くで見るとドス黒いえぐみの効いた色の嘘に変わってた。みんなは荻美咲の席のちょっと遠くで囁く。
「あいついっぱいヤっとるらしいぜ」「見かけによらずスケベなんやね」「お前もサせてもらえよ」「年上ってとこが気持ち悪いよね」「病院の先生ともヤったらしい」「つーかじゃあ子供が生まれる心配ないな」「ヤリまくりじゃん!」「今どんな気持ちなんだろうね」「ほんと、気持ち悪い」

 
私はそろそろ、私が悪かったということを認めなければいけない。
 視界が滲む。看板の文字が滲んで読めない。コンビニの光がとっても眩しい。
「彩、俺がなんか買っちゃる。なにがいい?」
 目の中の涙が溢れて悠馬の顔が見えた。悠馬は笑ってる。私がやっていたやり方じゃないあのときの顔で笑ってる。
「メシでもいんだぜ。なんでもいいんだぜ。彩の好きなもん買っちゃる」
 今さら二人に謝ってどうにかなるのか。許してもらえるかわからない。でも、だとしても、許されなかったとしても、この花火大会が終わったら二人に謝ろう。それで悠馬の笑顔を守り続けよう。一生側にいよう。今までできてたんだから無理なことなんてないはず。きっと私ならできるはず。
「見つけたぞ。苗木荒垣」
 私は声の方を振り返り、みんなの先頭になるよう片脚を突き出した。

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