32.『花火大会当日 谷田遥香②』




 –––ごめん! ごめんね! ごめんなさい!
 声が聞こえる。
 顔が、とても綺麗。
「大丈夫なの谷田ちゃん!?」
「夢を、みた」
「夢?」
 志乃ちゃんの涙がわたしの頬に落ちると少しだけ暖かかった。
「うん、たくさん、夢。昔の夢」
「さっきはごめんね」
「あのね志乃ちゃん。わたしわかった。わたしのじゃない」
「そんなのどうだっていいからお水飲んで」
 ペットボトルを受け取る。
 今日は星が綺麗だ。
「あまりにも心が空っぽ過ぎて、胸いっぱいに志乃ちゃんを詰め込んだ。あれはわたしのじゃない。間違いなく志乃ちゃんの。だからわたしはきっと、慧くんのこと好きじゃないんだ」
 志乃ちゃんは少し難しそうな顔をしている。
「わかんないけど、そうなんだね」
「うん。わたしはきっと、志乃ちゃんが好きな慧くんが好きだったんだ。わたしは、志乃ちゃんが好き。あの頃から変わらず、ずっとずっと。わたしの本当の夢はね、慧くんのこと好きな志乃ちゃんを、ずっとずっと大好きでいること。ずっと友達でいたいということ」
「うん」
「どうしてそんな顔するの?」
「それは谷田ちゃんもでしょ? これ使って」
「志乃ちゃんが先に使って」
「いいから」
 良い匂いがする。暖かい。生地が涙で滲む。
「でも、そっか。なんか嬉しいような、気が抜けちゃうような。慧くんのこと本当に好きやないん?」
「ちょっとは好きやったんかも。でも志乃ちゃんの気持ちに比べたら、きっとわたしの好きは小さすぎる」

 星を見ながら夏休みに起きた出来事を交互に話した。
 アラケンと悠馬の試合のこと。佐伯との不思議体験。彩花と喧嘩した日のこと、カトエマとも喧嘩した日のこと。慧くんとモールで遊んだこと。瀬下と小倉まで漫才衣装を買いに行ったこと。そしてさっき見た夢のこと。祖父の話、実は志乃ちゃんとわたしは昔スペースワールドで知り合っていたこと。いろんな話を聞いてくれた。そのたびいろんな表情で、まるで自分が体験したことのように驚いたりムッとしたり笑ったり。スペースワールドのことは一番驚いていた。でもそのことは覚えてないと言った。悲しくはなかったけど寂しかった。
 志乃ちゃんも夏休みに起こった出来事を話してくれた。ほとんど家族旅行のことだったけど志乃ちゃんは本当に楽しそうに話すから、ずっと聞くことができた。気ずくと車はもうほとんど無く、駐車場にはわたしと志乃ちゃんと少しの車だけ。それと空には星だらけ。
「でね、宝のありか一人で解いちゃって! 『グーニーズ』みたいってずっとはしゃいでたんやけどあたしとママ全然面白くないの!」
 これから先、志乃ちゃんとならずっと笑える。そんな気さえしている夜だ。
「ごめ~ん!」
 荻さんが手を振っている。映画のことすっかり忘れてた。遅刻なんてもう、どうでもよくなっている。
「遅いよ」
「ごめんごめん。打ち合わせしてたらこんな時間になっちゃった」
 荻さんは謝りながら一脚を握り、レンズをわたし達に向けている。
「もしかしてまた台詞変わったの?」
「本当にごめんね、どうしても納得いかなくって」
「そういうの事前に連絡できないの? 困るんだけど」
「あたり前だよ困らせるために遅れたんだから」
「は?」
 それは一体、どういうことだろう。
「この町出る前にバカどものアホ面撮っとこうと思ってね」
 荻さんは志乃ちゃんの顔めがけてにじり寄ってくる。
「佐伯ちゃんでしょ、谷田ちゃんでしょ、加藤さんでしょ、荒垣くん苗木くん、んで大原さん」
 荻さんはなにを言い出しているのか。
「あのギャルっぽい子とヤスヒトくんの弟さんのアホ面もできたら欲しかったけどやっぱり欲張っちゃダメだよね、うん」
「もういいからそういうの。はじめようよ」
「鈍いよねえアンタも。アンタらなんかが僕の作品に出られるわけないでしょ? しかも主演って。調子のんなクソども」
「騙したってこと?」
「言ったじゃん面白いものを撮るためなら手段を選ばないって! あれ言ってないっけ? もうなんか最近よくわかんないんだよね。何を言って何を言えなかったか」
 志乃ちゃんが飛びかかるのがわかったからわたしはそれを腕で制した。手は出しちゃダメ。こんなやつに手を出しちゃ。
「心配しないで。谷田ちゃんと佐伯ちゃんの素材は使うかもだから。あれは最高だった。本当に良い絵だと思った。わたしも二人も生き生きしてた。また観たいなあ、あんな顔」
 わざとレンズを睨む。荻さんの顔を見てしまうと今にも殴ってしまいそうだから。
「内容はあんまり好きじゃないけど『蜘蛛の糸』が好きなの。とくに極楽から地獄まで垂れ下がる糸が切れて犍陀多かんだたが落下してくとこ。昔絵本で読んだときは興奮した。あの犍陀多のような顔をいっぱい見たくってさ、たくさん悪いことしたよこの町で。僕の役目はね、主人公の物語に垂れ下がる希望の糸を、けちょんけちょんに切り刻んで台無しにして、ただの傑作に成り下がろうとしてる傑作をとんでもない傑作につくりかえるのが仕事なの。だからごめんね騙したりしちゃって! でも死んでないからオールオーケーだよねえ! 人は死ななかったらなんとかなる明日がある! ああおかしっ。笑える。ああ幸せだ。僕はなんて幸せなんだ。僕はこのなんにもない空っぽの町の存在価値を生み出したこの町の救世主なんだ!」
 荻さんは一脚ごとビデオカメラを地面に投げ捨て空に向かって笑い上げた。
「いいよお! いいよいいよお二人のその顔! 別にもうその顔に価値なんてないけどやっぱりその顔! 気持ちいねえ! ここに来てよかった! 最後に二人の顔が拝めて本当によかった!」
「谷田ちゃん、お願いがある」
 志乃ちゃんは荻さんを睨み続けている。わたしはすばやく走り、一脚のグリップを掴み、二人が映るようにレンズを向けた。
「荻さんは映画監督に向いてないよ」
「はあ?」
「荻さんは映画監督に向いてないって言ったの。聞こえなかった?」
 志乃ちゃんがゆっくり歩いてくる。
「大原さん。なんでこの僕が、向いてないと思うの? 聞かせてよ」
「荻さんは勘違いしてる。どんな映画にも普通がある。たとえばお釈迦様が極楽を散歩してる場面。罪人達が真っ暗の中で何を思うかの場面。お釈迦様が糸を垂らそうと感情が変化する場面。まあこれはすでに逸脱した世界のお話だから全てが異常だけど。とにかく普通のなにげないシーンだってある。思い出してみて。きっと荻さんの好きな物語にも退屈な場面や嫌いな場面があったはず。そんな場面があるから衝撃的なシーンや展開が際立つんじゃないの? 荻さんが大好きな、全部が全部笑える場面だけの映画だったら観てる人が離れてく。それじゃあ人を楽しませることはできない
 次は荻さんに合わせる。
「映画のこと知りもしないくせにぺちゃくちゃうるせんだよクソババアがよ。そんな簡単に言い切ってどいつもこいつも口ばっかでさ。感想言うなんて簡単なんだよ。どんなに褒めちぎっても酷評の刃物で切りつけられてもフィルムには傷一つだってつかない。アンタらがどんなに匿名で喚こうが物語に影響なんてしない! 自分は映画すべてを網羅したみたいな顔でムカつんだよ! なんっもわかっちゃいない! みんな映画のことなんもわかっちゃいないんだよ! 知ってるのはあたしだけ! 撮ろうと試みて実際行動を移した人だけ! だからなんもやってないやつは黙って一生寝てろよ! なんにもやってない人間が嫌いだ! だから人間が嫌いだ! だから僕は映画が嫌いなんだ! だから僕は映画を撮るんだ! 誰にも邪魔させない!
 次は志乃ちゃん。
「荻さんは映画を撮りたいんじゃなくて誰かをただ否定したいだけ。最初は自分が嫌う誰かを否定するためにはじめたことなのに、それが癖になって全員にあてはめるようになった。なってしまった。違う? あたしね。台本を読んだとき谷田ちゃんには悪いけどもう一人の自分役は荻さんだと思ったよ」
「監督はあたし! キャスティングにケチつけんな! 撮影なんて無いんだよ! 僕はアンタらで映画を撮りたいと思ってないんだよ!」
「荻さんがあたし達のこと認めなくても、あたしは荻さんを認める。受け入れる。だからそんな顔しないで」
 志乃ちゃんはゆっくり近づく。わたしも志乃ちゃんの動きに合わせて移動する。
「来るな平凡野郎! ふ、不潔だ不快だ不当だ不衛生だ! 気持ちわりぃ、おえっ、おっおっ、おえええええ! 認め、ない。アンタらの平凡を、僕は! 認めない!」
 必死に喚く荻さんを志乃ちゃんは柔く抱きしめた。荻さんは嗚咽を繰り返しながら志乃ちゃんの肩にゲロを吐き、それでも志乃ちゃんは荻さんの肩をさすりながら強く抱きしめ続けた。荻さんは昆虫みたいに肩のゲロを啜りクチャクチャ咀嚼して「勿体無い勿体無い勿体無い」と笑いながら食べたゲロを地べたにもどす。
「あたしはもう荻さんを認めてる。今度は荻さんが、荻さんが嫌いなこの世界を認めるべきやない?」
 自分の弱さを受け入れている。それが多分、志乃ちゃんの強さなのだろう。自分の弱さを肯定するということは、相手を肯定するのと似てる。だからわたしはみんなのことを認めたい。わたしは、みんなの弱さも強さも、そうじゃないものも全て体で受け入れたい。
 荻さんは走る。どこかに向かって。志乃ちゃんは追いかけずコンクリートに腰を下ろした。ああ、やっぱり、志乃ちゃんのその笑顔を、わたしは一生大好きでいたい。
「くさいねえ」
 志乃ちゃんは浴衣についたゲロを嗅ぎ、わたしを見て、あの日とほとんど変わらない笑顔とピースサインをレンズに投げた。

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