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web古地図散歩 江戸の水路跡 築地編1

当舎が町歩きイベントとして開催している「古地図散歩に行こう!」をweb上に再現しました。約5キロを3時間ほどかけてお客様に実際に案内している内容を再現したものです。1~5回のうち、1回目だけ無料でお読みいただけます。2回目以降は有料でのご購読となります。2~5回はそれぞれ180円、1~5すべてと配付資料が載っているマガジンは600円です。

築地に川?

みなさん、こんにちは。
今回は江戸時代の古地図を見ながら築地で町歩きをします。

ところでみなさん、築地と言ったら何を思い浮かべます?
はい、やっぱり築地の市場ですよね。でも、築地市場は豊洲に移転してしまいましたし、ここは歩き旅応援舎ですから場外市場のような観光地でお店の紹介とか食べ歩きのような定番の町歩きはいたしません。それでも面白いのが築地の町だということを、今日はご案内します。

それではいったいどこへ行くのか? 江戸時代の地図を見てください。江戸時代の築地には、四角くめぐる水路があったのです。今日はこの水路の跡をたどっていきます。

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今私たちのいるのは東銀座の駅の改札の前です。これから5番出口を出ますが、出口を出るとすぐに水路の跡があります。それでは、階段を上がって外に出ます。

外に出ると、目の前に橋がありますね。橋の名前が読めますか? 「万年橋」って書いてあります。

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江戸時代の万年橋というのは橋脚が石でできていまして、万年でも持ちそうだからというので万年橋という名前が付けられたそうです。

ところで、川もないのに橋がある。下はどうなっているのかと言いますと、橋の上が公園になってまして、公園の奥から橋の下が見えます。

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はい、見えました。この橋の下は高速道路なんです。この高速道路、コの字型の溝の底を走ってますよね。江戸時代の地図を見てください。万年橋の下に川が描いてあります。この築地は江戸時代前期の埋立地なんです。隅田川の河口部分を埋め立てて造られた場所で、築き立てて造られたから築地なんです。この築地の埋め立てのときに、埋め残されてできあがった運河がありました。これが築地川です。この高速道路は、築地川の水を抜いて、その川底に造られたものなんです。

今日はこの築地川、築地の町を四角くめぐっているこの川を、ぐるりと一回りしてまた万年橋まで戻ってくるコースを歩きます。

全体図

赤線が今日の予定コース、今回は地図に水色でかつてあった水路についても描いておきます。

築地の変遷

埋め立てによって築地が生まれたきっかけは、江戸中を焼き払ってしまった1657年の明暦の大火です。このときに当時横山町にあった、「浅草御堂」と呼ばれていた京都の西本願寺の別院も焼けてしまいまして、その移転先として木挽町沖の海を埋め立てたのが築地なんです。

さっき集合場所になっていた東銀座の駅は歌舞伎座と直結していましたけど、その歌舞伎座のある辺りが木挽町だったところです。木挽きっていうのは材木を鋸で切る職人さんのことです。木挽き職人がたくさん住んでいたから木挽町です。

その浜辺から先の海を埋め立てて、本願寺を移転させたのが築地の本願寺です。本願寺の移転先として埋め立てられたのに、その埋立地のほとんどは武家屋敷になりました。その町の中にぐるりと四角くめぐっていたのが築地川なのです。

海軍参考館

これが明治時代に撮影された築地川です。こんなに立派な川がありました。この築地川は、昭和30年代から水が抜かれ始めて、平成10年(1998)に最後まで川として残っていた部分が埋められて、川はなくなってしまいました。

でも川の跡地のほとんどは大きな溝のように窪んでいて、すぐにわかります。それではこの万年橋から築地川の跡を歩いて行きましょう。

万年橋は江戸時代前期である延宝7年(1679)の地図にはもう載っています。築地の埋め立ては明暦3年(1657)の火事の後ですから、だいたい1660年代から70年代ころに架けられた橋だと思われます。現在の万年橋は関東大震災の復興事業の一環として架け替えられたもので、昭和3年(1928)に完成したものです。

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万年橋のたもとに東劇がありますね。橋の右手を見ると新橋演舞場があります。東銀座駅の上には歌舞伎座がありました。いずれも松竹が経営している劇場です。この3つのうち最初にできたのは歌舞伎座で、明治22年(1889)に開場しました。後で行きますが、明治5年(1872)に江戸の三座の1つだった守田座が、築地に引っ越してきて新富座になりました。この新富座と後に歌舞伎座ができたことで、築地は明治以降に演劇街となったのです。

新富座は関東大震災でなくなってしまいましたが、今も松竹が経営する3つの劇場が集まっていて、築地は松竹のお膝元となっています。

活版印刷発祥の地

それでは築地川に沿って進みましょう。万年橋を渡ったら左へ進みます。この築地は江戸時代前期に埋め立てられて、ほとんどが築地本願寺と武家屋敷になったのですが、明治時代になるとここに外国人居留地が築かれました。外国人居留地としては横浜や神戸が有名ですが、実は築地にもあったんです。

そのためヨーロッパやアメリカの貿易商たちが大勢築地には住んでいまして、そのため西洋から新しい文明が入ってくる最先端の地が、この築地だったのです。そんなわけで、築地には何とか発祥の地がたくさんあります。ここを右に曲がると、今日最初の発祥の地があります。

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はい、ここに碑がありますね。碑には活字発祥の碑と書いてありますが、ここは日本で最初の活版印刷の工場ができた場所なんです。

日本の活版印刷の始まりは、長崎にいたオランダ通詞、オランダ語の通訳ですね、本木昌造がオランダ人から活字と印刷機を買ったことに始まります。本木昌造はこの印刷機を遣って、安政2年(1855)に長崎奉行所配下の印刷所を設立します。これが明治2年(1869)には初の民間活版業である新町活版所となりますが、これを昌造のもとに弟子入りしていた平野富二が引き継ぎ、明治5年(1872)に築地活版所を設立しました。これが東京日日新聞、今の毎日新聞ですね、ここから新聞の印刷を受注したことがきっかけで印刷工場として大きく発展したことから、この地が活字発祥の地と呼ばれるようになったんです。

まあ、正確には活字発祥ではなくて、はじめて商業的に成功した活版印刷工場があった場所、ということです。日本の活字印刷はさっきもお話ししたとおり、本当は長崎で始まったんですもんね。ところで、築地活版所を設立した平野富二、この人、実はもっと有名な会社を設立しています。IHI、石川島播磨重工業の設立者なんです。

そして彼が印刷に使用した活字に使われていたのが明朝体です。中国が明だった時代に生まれた書体なので明朝体、日本には江戸時代の初めころに入ってきました。

日本には禅宗に3つの宗派があります。鎌倉時代に日本に入ってきた臨済宗と曹洞宗、そして江戸時代に入ってきた黄檗宗です。この黄檗宗を日本にもってきた中国のお坊さんを、隠元さんといいます。この隠元さんが持ってきたお経に使われていた書体が明朝体だったのです。

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参考:黄檗隠元禅師雲濤集

これが活字になったことで、明朝体は日本で広く使われるようになります。新聞や本の活字も、ほとんどが明朝体ですよね。

ところで隠元さんが日本に持ち込んだものは明朝体だけではありません。その他に2つのものが、隠元さんによって日本にもたらされたと言われています。1つは食べ物です。何でしょう?

お、答えが早いですね。正解です。インゲン豆です。隠元さんが日本に持ち込んだからインゲン豆なんです。

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そして残る1つは木魚です。お坊さんが法要のときにポクポク叩いている木魚ですね。昔のアニメの一休さんにも木魚が出てきますが、一休さんは室町時代の人ですから、このころは本当は木魚はなかったんですね。

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蘭学者と漂流民

それではこのまま先に進みます。正面に見えているのは築地本願寺です。後ほど立ち寄ります。次の十字路を左に曲がりますと、UFJ銀行がありますね。あの辺りに住んでいた人に桂川甫周がいます。江戸時代の地図を見てください。「桂川甫周」って書いてありますよね。

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その屋敷の跡地には現在は道路ができています。この道路からは少し離れていますが、銀行の前に説明の看板が立てられています。

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桂川甫周は江戸時代中期の蘭方医です。しかも将軍の診察をする奥医師でした。この人、皆さんも知っていると思いますが、ある事業に参加しています。オランダ語で書かれた「ターヘル・アナトミア」という本の翻訳に関わったのです。翻訳された本の名前は「解体新書」。前野良沢と杉田玄白が翻訳したことは有名ですが、桂川甫周もこの翻訳作業に最初から関わっていました。

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桂川甫周がしたことは他にもあります。江戸時代中期の天明2年(1782)、伊勢の白子の船頭である大黒屋光太夫は航海中に嵐に遭って漂流し、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着します。そこでアザラシ狩りに来ていたロシア商人と出会い、ロシアに渡るのですが、その光太夫が寛政4年(1792)にロシアから日本に派遣されたラクスマンの船に同乗して、日本に帰ってきたのです。


その光太夫を、好奇心の塊だった11代将軍の徳川家斉が引見するんですね。ところが家斉は外国帰りの男と単独で会うのが不安だったらしく、オランダ語ができて外国の事情に詳しい奥医師の桂川甫周に同席を命じたんですね。記録に残っているだけで55人の子供がいたという徳川家斉、けっこうビビりです。

さて、いよいよ将軍家斉は光太夫と会うわけなのですが、その席で家斉は「ロシアでは日本のことは知られているのか?」と日本の評判について質問したんですね。そしたら光太夫は「ロシアでは知られている日本人が2人います。中川淳庵と桂川甫周です」と答えたというんです。

その場にいた桂川甫周は、いきなり自分の名前が出たもんですからびっくりですよ。月曜日の朝にモーニングショーを見てたら岡本永義が出てたなんて、比べものにならないくらいの衝撃です。ちなみに中川淳庵も解体新書の翻訳メンバーの1人です。

そんなことがあったもんですから、桂川甫周は後日、小石川御薬園、いまの東大の小石川植物園ですけど、幕府によってここに住まわされていた大黒屋光太夫を訪ねて、「実は私が桂川甫周です」と名乗って光太夫に対面したんですね。今度は光太夫がびっくりです。

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こうして甫周が記して出版された本が「漂民御覧之記」と「北槎聞略」なのです。子供のころに受けた歴史の授業で聞いたことがある本だと思います。

実は桂川家には、もう1人甫周という名前を名乗った人物がいます。「解体新書」を翻訳したり大黒屋光太夫と会ったりした甫周は奥医師桂川家の4代目、もう1人の甫周は7代目です。この7代目は幕末の人でして、安政2年(1855)に日本最初の蘭和辞典、つまりオランダ語を日本語に翻訳するための辞典を編纂しています。

それでは築地川の方へ戻りましょう。この築地川は昭和39年(1964)に東京でオリンピックが開かれるに先だって、高速道路を造る用地とするために水を抜かれてしまいました。

こうして造られた高速道路ですので、今でも川だったころの名残があるんです。それは・・・

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2につづく

現在の地図は国土地理院webサイトの地図を加工して、江戸時代の地図はこちずライブラリの復刻版江戸切絵図を、古典籍、古写真は国立国会図書館デジタルコレクションのものを規約に従い、あるいは許可を得て使用しています。

今回の配付資料

築地編配付資料改訂版_1

築地編配付資料改訂版_2

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江戸時代前期の埋め立てによって造成された築地には、豊洲に移転するまで東京中央卸売市場があり、今も場外市場を多くの観光客が訪れることで知られています。しかし、築地で行くべきところはこれだけに限りません。江戸時代に海を埋め立てて築地が造成されたときから昭和の半ばに水を抜かれるまで築地にあった「築地川」の跡をめぐり、知られざる築地の面白さを紹介いたします。 1~5の記事(1のみ無料)と実際に歩くときにお客様に配る資料が入っています。

江戸時代の古地図を見ながらかつて築地にあった水路の跡を歩く町歩きイベントを、webで再現しました。江戸時代の古地図を見ながら歩けば、築地の…

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